第47話 まっすぐじゃない足跡
井坂蒼真は、最初から“陸上部らしい一年”ではなかった。
姿勢も、言葉も、競技場の空気になじむまでの時間も、どこか一拍ずつ荒い。
練習中は真面目にやるくせに、休憩に入ると急に壁を作る。
真壁に食ってかかることはあっても、瀬川の前では妙に口数が減る。
なんとなく尖っている、では済まない引っかかりがあった。
その違和感の正体を、蓮が初めて見たのは、放課後の帰り道だった。
駅前のコンビニ脇で、井坂が三人組に囲まれている。
制服は違う。
年も少し上に見えた。
笑い方だけが、やけに馴れ馴れしい。
「よお、蒼真」
「最近まじめじゃん」
「陸上部って何。ウケるんだけど」
井坂は露骨に嫌そうな顔をしていた。
「帰るんだけど」
「冷てえなあ」
「昔はもっとノリ良かったろ」
「昔だろ」
「じゃあ、今でも来いよ。ちょっと走ろうぜ」
その“走ろう”が、トラックの意味じゃないことは、聞けば分かる。
蓮が少し止まると、倉橋が先に一歩出た。
「井坂」
三人組が一斉にそっちを見る。
倉橋は明らかに怖がっていた。
けれど引かなかった。
「練習ノート、忘れてた」
咄嗟の嘘だと分かる。
けれど、その不器用さがむしろ良かった。
井坂は舌打ちを飲み込むみたいに息を吐いた。
「今行く」
「え、何、お友達?」
「真面目くんじゃん」
「感じ変わったなあ、お前」
それでも井坂はそっちへ戻らなかった。
倉橋の横へ来ると、そのまま早足で歩き出す。
しばらく無言だった。
駅を越えたあたりで、ようやく口を開く。
「……見た?」
「うん」
「引いた?」
「少しは」
「正直だな」
「でも、だからって終わりじゃないし」
井坂はそこで初めて、ちゃんと倉橋を見る。
「俺、中学のとき、ああいうのとつるんでた」
「うん」
「だいぶやばかった」
「うん」
「まじで」
「分かる」
「なんで分かるんだよ」
「最初から、ちょっとだけそう思ってたから」
「最悪」
井坂は苦く笑った。
そして少し考えてから、ぽつりと続ける。
「ばあちゃんがいたんだ」
倉橋は黙って聞く。
「親、夜遅い仕事多くて、ほとんどばあちゃんに育てられた。なのに、俺、あのころ全然家帰らなくて」
「……」
「ある日、ばあちゃんから電話来てたんだよ。何回も。でも無視した」
「……うん」
「仲間とつるんでて、あとで気づいて折り返したら、もう救急車だった」
足元だけを見る声だった。
「病院まで、走った」
「……」
「めちゃくちゃ走った。あのときが、たぶん人生で最初に本気で走った」
倉橋の喉が少しだけ詰まる。
「間に合わなかった」
「……」
「留守電が残ってた。“気をつけて帰っておいで”って。それが最後」
春の夕方の駅前は人が多いのに、その一角だけ妙に静かだった。
倉橋はうまく言葉が出ない。
ただ、井坂が今ここでそれを話したことの重さだけは分かった。
「そのあと、中学の陸上の先生に見つかった」
井坂は続ける。
「夜の校庭、走ってたら。“逃げる足じゃなく、帰る足に変えろ”って言われて」
「……」
「それで始めた」
「陸上」
「うん」
「始めるのが遅かったから、大会とか全然出てない。でも最後に中学のエースに四百勝負挑んで、勝った」
倉橋が少しだけ笑う。
「そこは井坂っぽい」
「だろ」
少しだけ空気が戻る。
でも、その夜の話は消えない。
井坂の走りの芯にあるのは、勝ち気さだけじゃない。
帰れなかった夜の後悔だ。
だからこそ、昔の仲間に引き戻されることを、自分でも怖がっているのだと、倉橋はようやく分かった。




