第46話 県総体へ向かう春
春の空気が、少しずつ競技の匂いに変わっていく。
冬のあいだは積むことしかできなかった。
タイムよりも本数、派手さよりも反復。
けれど四月の終わりを越えるころになると、校庭の一本一本が急に“結果に繋がる走り”へ変わり始める。
アップの流しひとつ、補強の数十秒ひとつにも、地区予選、県大会、その先の南関までがうっすら混ざり始める。
真壁がホワイトボードの前で種目表を見ていた。
「男子四百、朝倉、井坂、倉橋」
読み上げる声に、井坂がすぐ顔を上げる。
「三人とも出すんですか」
「出せるなら出すだろ」
「倉橋も?」
「文句あるのか」
「ないです。ただ、負けたくないだけで」
「なら勝てよ」
瀬川がその横で、静かに追加する。
「僕は八百です。ついでにマイルのアンカー」
「ついでじゃないだろ」
真壁が言うと、瀬川は少しだけ肩をすくめた。
「僕の中では同じくらい重要なので」
「お前、そういうとこだけ雑だよな」
「真壁に言われると複雑です」
西野はその少し後ろで、自分の名前の横をじっと見ていた。
男子四百メートルハードル。
その欄に、小さく自分の名がある。
「西野」
遥が隣から覗く。
「まだ見る?」
「見ます」
「緊張してる?」
「してます」
「だよね」
「でも、出たいです」
神崎に憧れて、自分でも一度だけやってみたいと思った。
見ているだけでは分からない怖さと、跳ぶ前の呼吸を知ってみたいと思った。
西野のその気持ちを、真壁も瀬川も笑わなかった。
「地区で終わってもいいです」
西野が小さく言う。
「でも、立ってみたいんです」
その言葉に、蓮は少しだけ神崎の顔を思い出した。
“怖くないと雑になる” 南関で聞いたあの一言が、西野の中でもちゃんと残っていたのだと分かる。
一方で、新入生の空気も少し変わり始めていた。
井坂は相変わらず真正面から突っかかってくるが、倉橋はもう以前ほど遠慮しない。
マイルの仮メンバーに入ったことが、自分の中の何かを少しだけ変えたのだろう。
受け渡しの練習では、蓮へ差し出すバトンを怖がらずに出すようになった。
高梨は、最近よく蓮を見ていた。
本人に気づかれない程度、というつもりなのだろうが、遥には分かる。
視線の置き方が前と違う。
ただ速い先輩を見る目ではなく、その日ごとの表情や疲れ方まで追う目になっている。
そのことに気づいたとき、遥は少しだけ変な気分になった。
理由はまだ説明できない。
ただ、蓮の名前が自分以外の誰かの中で、少しずつ特別なものになっていくのを見たくないような感覚が、胸の奥に小さく引っかかった。
高梨が記録用紙を持って、蓮へ言う。
「朝倉先輩、次の一本、三本目で合ってますか」
「合ってる」
「ありがとうございます」
「……高梨」
「はい」
「呼ぶとき、そんな固くなくていいよ」
高梨は一瞬だけ止まった。
「じゃあ、もう少し慣れたら」
「そう」
「今はまだ無理です」
その返し方に、蓮は少しだけ笑った。
その笑いを見た瞬間、高梨の胸がまた少しだけ鳴る。
自分でも分かる。
これはただの憧れより、もう少し近いところに来始めている。
春は、走力だけじゃなく、関係まで変えていく。
潮見の県総体への道は、そういう熱を抱えたまま動き出していた。




