第42話 一人では届かない
四月の終わり、男子四百のタイムトライアルが行われた。
試合ではない。
校内の計測に近い一本だ。
それでも、真壁も瀬川も、遥も西野も、一年たちも見ている。
見られていると分かった瞬間、ただの練習ではなくなる。
蓮にとっては、それだけで十分に意味のあるスタートラインだった。
「On your marks」
指先がトラックに触れる。
春の気温のわりに、ゴムの感触は少し乾いている。
「Set」
腰を上げる。
鳴る前の数秒だけ、身体の内側がうるさい。
号砲。
最初の入りは悪くない。
冬を越えたぶんだけ、脚は前へ出る。
二百までのリズムも整っている。
飛ばしすぎず、遅すぎず、自分の形を崩さない範囲で押していける。
三百へ入る手前で、ふっと世界の輪郭が薄くなった。
音が一歩遠い。
風の抵抗が消えかける。
身体が、すっと軽くなる。
来る。
そう思った瞬間、蓮は同時に分かった。
足りない。
前から流れ込んでくる速度がない。
誰かの呼吸も、誰かのリズムも、バトンの感触もない。
自分一人の中だけで開きかけた何かが、そのまま浅いところでほどける。
最後の直線、蓮は普通に苦しくなった。
腕を振り、脚の重さを受け止め、それでも押し切る。
ゴールしたタイムは悪くない。
むしろかなり良い。
見ていた一年たちがざわつく程度には、十分速かった。
「速……」
高梨が思わず漏らす。
小宮山も記録を書きながら、一瞬だけ手を止めた。
蓮は息を整えながら歩く。
だが耳の奥で、細い音が伸びていた。
キーン、と、ごく弱い耳鳴りに近い感覚。
遥が近づく。
「今、ちょっとあった?」
「少し」
「入った?」
「いや。入口だけ」
「一人だから?」
「たぶん」
その会話を、井坂も倉橋も聞いていた。
井坂が遠慮なく訊く。
「一人だと出ないんですか」
蓮は少し考える。
「出ないっていうより、深くならない」
「深く」
「……うまく言えないけど」
そこへ瀬川が来た。
「個人では、自分の速度しかありませんから」
井坂が振り向く。
「でも、速さは出てた」
「はい。でも、あれは走力の延長です」
「シンクロじゃない?」
「浅いです」
浅い。
その言葉が、蓮には妙にしっくり来た。
県でも、南関でも、ときどき一瞬だけ世界が合う感覚はあった。
空気が軽くなることも、音が遠のくことも、まったくなかったわけではない。
けれど、南関の最後みたいに、世界ごと切り替わるほど深く入ったことはなかった。
個人四百は、自分一人の力を証明する種目だ。
だからこそ、あの現象をそのまま持ち込めないのかもしれない。
速さだけでは届かない。
でも、速さがなければ入口にも立てない。
その両方を、蓮は少しずつ身体で覚え始めていた。




