第43話 名前のついた現象
五月に入るころ、部室に一冊の陸上情報誌が置かれた。
持ってきたのは高梨だった。
最初のころの遠慮がちさはまだ少し残っているが、それでも今は、自分から部に必要そうなものを持ってくるようになっている。
「これ、見てください」
開いたページの下、ほんの小さなコラムだった。
春の注目校を扱う特集の片隅に、潮見高校の4×400mリレーが載っている。
“南関で見せた潮見の異様な加速。
会場で囁かれた『シンクロ』とは何か。”
真壁が先に吹き出した。
「ほんとに載ったな」
蓮は苦い顔をする。
「全然うれしくないです」
「なんでだよ」
「言葉だけ先に走ってる感じがして」
瀬川が誌面を見たまま言う。
「でも、これは大きいです」
「大きいんですか」
「はい。呼べるものは、見られ方が変わるので」
「変わらなくてよかったんですけど」
「もう無理です」
その横で、一年たちが小さくざわつく。
「やっぱり本当にあるんだ」
「動画だけじゃなかったんだ」
「シンクロって、あの感じか……」
その反応を聞いて、蓮は少しだけ居心地が悪くなる。
見たい。
すごい。
もう一回。
そういう期待を向けられるほど、あの感覚は逃げていく気がした。
遥が誌面を閉じる。
「見るために出すもんじゃないでしょ」
高梨が素直にうなずく。
「はい」
「出そうとして出したら、たぶん崩れる」
小宮山も小さく続けた。
「先に走り、ってことですよね」
遥が少しだけ目を細める。
「そう。近道だと思わないほうがいい」
そこで真壁が一年たちを見る。
「勘違いするなよ。うちの強みは魔法じゃねえ」
井坂が言う。
「でも、普通じゃないんでしょ」
「普通じゃない場面はある」
真壁は否定しない。
「でも、その前に普通の一本がある。毎日の練習がある。そこ抜かしてシンクロだけ欲しがるやつは、どうせ残らねえ」
瀬川が静かに続ける。
「まず速くなってください。次に繋ぎを覚えてください。現象の話は、そのあとです」
高梨は誌面を閉じたあとも、しばらくそのページの余白を見ていた。
そこに蓮の写真が大きく載っているわけではない。
ただ、短い一文だけが妙に残る。
“音の消えるような伸び”
南関を見ていない自分には、まだ本当の意味では分からない。
でも、もしそれを目の前で見たら、何かが変わる気がした。
シンクロという名前は、部内だけの呼び名でも、SNSだけの軽い噂でもなくなり始めていた。
曖昧だった現象が、外側の言葉によって輪郭を持ち、広く知られ、はっきりとしたものになっていく。
そのことからは、もう逃げられない。
蓮はそれを、静かに受け入れ始めていた。




