第37話 託されるバトン
三送会のあとの部室は、いつもより少しだけ狭く見えた。
人数が特別多いわけではない。
けれど、神崎たち三年がいるだけで、部屋の空気の重心が前へ寄る。
その中心ごと、もうすぐ抜けていくのだと思うと、壁に立てかけられたハードルや棚に積まれた記録用紙まで、どこか仮のものみたいに見えた。
真壁は腕を組んだまま黙っている。
瀬川はホワイトボードの前で、書くでもなくペンを指で回していた。
蓮は椅子の端に座り、神崎がまだ口を開かないことに、逆に息が浅くなるのを感じていた。
相沢が壁にもたれたまま笑う。
「こういう空気、嫌いじゃねえけどな。誰も喋ってねえのに、全員うるさい」
「うるさくしてるの、だいたい相沢先輩です」
遥が言うと、相沢は肩をすくめた。
「お、言うようになったな」
「前から言ってる」
「それを今日言うのが成長ってやつだろ」
「違うと思います」
部屋の端で西野が小さく笑う。
その笑いで、張りつめていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
そこで神崎が前に立った。
「決めるぞ」
短い一言で、部室がまた締まる。
「次の部長は真壁」
真壁の目が一瞬だけ見開く。
周りは驚いていない。
候補として想像していた者は多いはずだ。
それでも、本人だけがいちばんその座りの悪さを分かっている顔をしていた。
「……俺ですか」
「そうだ」
「瀬川じゃなくて?」
「瀬川は横で使う」
「使うって言い方あります?」
神崎は気にせず続ける。
「真壁は前に出ろ。止まるな。ただし、一人で決めるな」
「……はい」
「瀬川」
「はい」
「真壁の横にいろ。練習も流れも、お前が整えろ」
「分かりました」
真壁が横を見る。
「お前、嫌じゃねえの」
瀬川は表情をほとんど変えずに答えた。
「真壁が前に立って、僕が横で止める形のほうが機能します」
「止める前提かよ」
「必要になるので」
「否定しろよ、そこは」
笑いが起きる。
その笑い方だけで、潮見はまだ大丈夫だと蓮は思った。
重いものを重いまま受け取って、それでも少しだけ呼吸を作れる。
その空気を、神崎たちは最後まで壊さなかった。
神崎の視線が蓮へ移る。
「朝倉」
「はい」
「お前は二年の中心になる」
「……はい」
「勘違いするな。主役になるって意味じゃない」
「分かってます」
「お前が速くなることと、お前が繋ぐことは、もう別じゃない」
説明は少ない。
けれど、言いたいことは分かる。
南関で触れたあの現象を、ただの偶然で終わらせるなということだ。
個人の走力と、マイルの流れ。
その両方を背負う位置へ、お前はもう入っていると。
最後に神崎は棚の奥から一本の白いバトンを出した。
南関で使った、あの一本だった。
「真壁」
「はい」
「落とすな」
真壁はそれを受け取る。
いつもの雑な手つきじゃない。
ほんの少しだけ慎重で、だからこそ本物だった。
相沢が笑う。
「似合わねえ顔してるな」
「うるさいです」
「でも、そういう顔になるなら平気だ」
「何がですか」
「受け取った重さ、分かってるってことだよ」
真壁はすぐには返さなかった。
代わりに、バトンを一度だけ強く握る。
部長になる、という言葉そのものより、その握り方のほうがずっと本当だった。
蓮はその横顔を見ながら思う。
南関で終わらなかったものは、悔しさだけじゃない。
ちゃんと渡されるものがあり、ちゃんと受け取る側がいる。
負けたままでも、次へ残せるものはある。
この部は、そこからまた始まるのだと、蓮はようやく少しだけ実感した。




