第36話 届かなかった先
大会が終わったあと、競技場は急に静かになる。
さっきまで全力で走っていたトラックが、何事もなかったみたいにただの赤い地面へ戻る。
観客席のざわめきは少しずつほどけ、通路にはスパイクケースの擦れる音ばかりが残る。
その静けさの中で、七着という数字だけが妙に鮮明だった。
全国には行けない。
六位まで。
潮見は七位。
分かりやすい敗退だ。
言い訳はできない。
でも、蓮の中に残っているのは、県大会で負けたときのような散らかった悔しさではなかった。
何もできなかったわけじゃない。
むしろ、できた。
初めて、確かに何かができた。
それでも足りなかった。
それが、きつい。
真壁が荷物をまとめながら言う。
「七位って、最悪ですね」
瀬川が答える。
「最悪です」
「でも、ただの最悪じゃない」
神崎が言った。
「……はい」
真壁が顔を上げる。
「分かります」
西野も続ける。
「届かなかった場所が、ちゃんと見えた感じです」
遥がうなずく。
「県のときの悔しさと違いますよね。遠い、じゃなくて、ここ越えればいいんだ、って感じ」
「それが一番きついけどな」
真壁が苦く笑う。
「はい。でも、一番次につながるやつでもあると思います」
少し離れたところで、東陵大附属の選手たちが撤収を始めていた。
黒瀬が一人、こちらへ歩いてくる。
「お疲れ」
蓮が顔を上げる。
「……お疲れ」
「いいレースだった」
「そっちは全国だな」
「うん。四百も、マイルも」
「知ってる」
「四百、四位」
「見た」
「そっちは八位」
「見るなよ」
「見えるだろ」
黒瀬はそこで一度、潮見の四人を順に見た。
「でも、最後のあれ、何だった」
真壁が眉をひそめる。
「は?」
「三走から四走。あれ……」
瀬川が静かに言う。
「見えましたか」
「見えたっていうか、見えなかったです」
黒瀬の声は少し低かった。
「途中、視線がついていかなかったというか……」
蓮は黙る。
黒瀬は真壁と瀬川の方にも視線を向ける。
「真壁先輩たちも、分かってない感じですよね」
瀬川が静かに答える。
「はい。たぶん、完全には」
真壁も眉をひそめる。
「俺も、いまのは説明できない」
黒瀬はもう一度蓮を見る。
「でも、あれは覚えた。たぶん忘れない」
少し間があって、蓮が聞く。
「お前、怖がってる?」
黒瀬は少しだけ間を置いた。
「……ちょっと」
その答えが妙に正直で、蓮は小さく笑った。
「そっか」
「でも次も勝つ」
「なら、こっちも引き離すつもりで行く」
「それでいい」
黒瀬は戻っていく。
その背中を見送りながら、蓮は少しだけ落ち着いていた。
差はある。
明確にある。
黒瀬は個人四百で四位、全国へ行く。
マイルでも三着。
自分は個人八位、マイル七位。
でも、その差はもう名前だけのものじゃない。
一本一本、自分の脚で知った差だ。
相沢が最後に言う。
「悔しいか」
真壁が即答する。
「めちゃくちゃ」
瀬川も言う。
「かなり悔しいです」
神崎は短い。
「当然だ」
西野は少し迷ってからうなずく。
「悔しいです」
遥も言う。
「すごく」
相沢が蓮を見る。
「お前は」
蓮は少しだけ息を吐いた。
「悔しいです」
「いい」
相沢は小さく笑った。
「悔しさがぼやけてないなら、大丈夫だ」
神崎がトラックを一度だけ振り返る。
個人四百メートルハードル七位。
最後の個人戦は全国に届かなかった。
でも、マイルでは四人の形が初めて見えた。
「朝倉」
「はい」
「お前、今日八位だった」
「はい」
「忘れるな」
「はい」
神崎は少しだけ間を置いて言った。
「でも、その八位を越えた先に、次のお前がある」
蓮は言葉に詰まって、それから強くうなずいた。
「はい」
「真壁、瀬川」
「うす」
「はい」
「西野、遥」
「はい!」
「はいっ」
「次は、もっと上まで連れていけ」
命令というより、託す声だった。
夕方の競技場を風が抜けていく。
終わった大会の匂いがする。
でも、それは完全な終わりではなかった。
全国には届かなかった。
けれど、届かない場所の輪郭ははっきり見えた。
そしてその手前で、蓮を中心に、四人が一瞬だけ同じ速さへ触れたことも。
あの一本は消えない。
消えないまま、次の季節へ続いていく。




