第35話 シンクロコンプリート
大会最終日、男子4×400mリレー決勝は午後の終盤に置かれていた。
フィールド競技のいくつかはもう終わり、スタンドには“今日のクライマックスを待つ空気”が溜まり始めている。
男子のマイルが終われば、残るのはもうわずかだ。
観客の視線も、他校の選手の気配も、県大会のそれよりはるかに濃い。
潮見のオーダーは変わらない。
一走、真壁。
二走、瀬川。
三走、蓮。
四走、神崎。
レース前、真壁が後ろを見ずに言う。
「行ってきます」
神崎が答える。
「持ってこい」
瀬川が続けた。
「突っ込みすぎなければ、ですけど」
「分かってるって」
遥が少しだけ笑う。
「真壁先輩、ちゃんと帰ってきてください」
「死地かよ」
西野が緊張した声で言う。
「でも、本当にお願いします」
「お前は真面目すぎる」
笑いは小さい。
でも、その小ささがちょうどよかった。
真壁がスタート位置につく。
瀬川が第一コーナー側の受け渡し地点へ向かう。
蓮はホームストレート側の三走待機位置へ移動しながら、トラック全体の音が少しずつ遠くなるのを感じていた。
「On your marks」
静かになる。
「Set」
号砲。
真壁はいい入りをした。
ただし、県大会みたいな無茶な突っ込みではない。
速い。
けれど、潰れない範囲で前へ出ている。
それでもやはり南関の上位勢は強い。
第一、第二コーナーを回って向こう正面へ入るころには、潮見はトップ集団からじわじわ離される。
バックストレート。
差は少し開く。
蓮は待機位置から、一走の真壁を目で追っていた。
フォームはまだほどけていない。
腕も残っている。
だが、全国を狙う学校の一走たちは、そこでさらに半歩前へ出る。
真壁が戻る。
瀬川が受ける。
ここで大きな奇跡は起きない。
瀬川は上位の背中を一気に詰めるタイプではない。
だが、落ち方を最小限にする。
区間の形を壊さない。
前を見すぎず、自分のストライドを揃えることで、チームの流れだけは切らせない。
それでも、差は残る。
東陵大附属は前方の集団にいる。
黒瀬のいる三走圏は、まだ遠い。
西野の声が響く。
「朝倉くん!」
蓮は受け取り位置に立つ。
前方、すでにばらけた先頭寄りの集団の中に、東陵のユニフォームが見えた。
黒瀬はかなり前だ。
潮見とはまだ差がある。
瀬川の足音が近づく。
その瞬間だった。
見た、というより、分かった。
まだ触れていない。
でも、来る位置が分かる。
瀬川の声を聞いたからではない。
足音を目で追ったからでもない。
背中の少し後ろ、肩甲骨の間あたりに、次の速度が先に触れた気がした。
蓮は一歩を出す。
バトンが入る。
その瞬間、世界の音が薄くなった。
歓声が遠い。
スパイクの反発音が水の底のように鈍る。
自分の呼吸だけが、妙に澄んで聞こえる。
苦しさがない。
いや、正確にはあるはずなのに、そこに届かない。
脚は回っている。
腕も振れている。
なのに、身体の重さだけが一瞬どこかへ抜け落ちる。
景色が後ろへ流れる。
速い、ではなかった。
滑っている。
空気の抵抗を置き去りにして、レーンの上を薄く削るように進んでいく感覚だった。
前にいるはずの選手たちの距離感がおかしい。
遠かった背中が急に近い。
一歩で詰めたのか、時間が縮んだのか、自分でも分からない。
前方の黒瀬が、ぞくりとしたように肩を震わせた。
かなり前にいたはずの彼が、何かを感じて一瞬だけ振り返りかける。
あり得ない、という気配だけが、背中越しに伝わってくる。
まだ、シンクロそのものではないのかもしれない。
けれど蓮は、その瞬間たしかに何かをつかみかけていた。
県大会で触れた感覚の、その先。
ひとりで速くなるのではなく、前の走者の流れごと自分の中へ通してしまうような、得体の知れない接続だった。
蓮はさらに進む。
バックストレートで、一人目の背中が急に近づいた。
追っている感覚ではない。
差を詰めているはずなのに、自分の脚が地面を強く蹴っている感じが薄い。
ただ、前にある距離だけが不自然なくらい短くなっていく。
スタンドのざわめきが変わる。
応援の声というより、悲鳴に近いどよめきだった。
さっきまで後ろにいたはずの潮見の三走が、向こう正面で一気に前へ迫っている。
見ている側の認識の方が遅れて、何が起きているのか整理できないまま声だけが漏れる。
第三コーナーへ入る。
蓮は前の一人を呑み込む。
それでもまだ足りない。
前にはまだ集団がいる。
東陵はもっと前だ。
だが、離されて終わる流れではもうなかった。
第四コーナー。
ここで本来なら、最もきつくなる。
脚が重くなり、フォームが崩れ、受け渡しのことだけを考えて走りが小さくなる。
なのに、その苦しさが蓮には来ない。
いや、来ているはずなのに、そこへ届く前に何か別の感覚がすべてを覆ってしまう。
神崎への受け渡しが近づく。
その数メートル手前で、世界がもう一度裂けた。
完全な無音。
今度は薄くなるのではない。
全部が消える。
歓声も、足音も、風も、自分の呼吸さえ、音としては存在しない。
時間が止まったように見えた。
蓮の中だけが、静かなまま進んでいる。
苦しさはない。
熱もない。
ただ、信じられないほど冷静で、涼しくて、疲労がまるで届かない。
神崎が動く。
早い。
いつもより明らかに早い。
まだ手前だ。
普通なら出ない。
でも神崎だけが“来る”と知っていたみたいに、わずかに早く身体を切る。
蓮はその背中へ、ためらいなくバトンを差し出す。
触れた瞬間、遅れていた音が一気に後ろから追いついてきた。
歓声。
スパイク音。
誰かの叫び。
風の裂ける音。
神崎が飛び出す。
受け渡しの勢いそのままに、前の集団へ食らいつく。
開いていたはずの差が、最後の直線で一気に縮んでいた。
走り終えた黒瀬はその横で、一瞬だけ凍りついていた。
目で追ったはずの軌道が途中で消えた。
どこをどう通って、どう渡したのか分からない。
ただ、さっきまで届かない位置にいた潮見の三走が、あり得ない形で差を詰め、アンカーへつないだ事実だけが残る。
何だ、今の。
それは初めて黒瀬が蓮に対して抱いた、競争心ではなく恐怖だった。
神崎は走る。
前に六位争いの集団。
その少し後ろから、神崎が追い込む。
真壁の前半、瀬川の整え方、蓮の異常な加速。
その全部を背負ったまま、神崎が最後の直線へ入る。
一人で追っているのではない。
四人分の流れの上に身体を置いているような走りだった。
腕が振れる。
肩は上がる。
苦しい。
けれど切れない。
最後の直線、六位の背中が近づく。
あと少し。
あと半歩。
もう少し。
ゴール。
神崎がラインを切る。
東陵大附属はその少し前、全国ラインの位置でフィニッシュしている。
潮見は――分からない。
七位か。
六位か。
届いたのか。
届かなかったのか。
誰もすぐには掲示板を見られなかった。
さっきの一本が大きすぎて、数字がまだ身体に入ってこない。
西野が叫ぶ。
「掲示、出ます!」
四人がほとんど同時に顔を上げる。
表示が切り替わる。
まず、東陵大附属。
三着。
全国に届く位置だった。
その下へ、視線が落ちる。
県立潮見高校――七着。
全国には届かなかった。
六位まで。
その一本ぶんの差が、はっきり数字になってそこにある。
でも、蓮の中には、単純な敗北感だけではないものが残っていた。
さっきの一本。
確かにあった。
普通の受け渡しではない、何か。
四人が同じ速さになりかけた瞬間が。
相沢が後ろで低く言う。
「……見えたな」
神崎が息を切らしながら答える。
「ああ」
瀬川が小さく呟く。
「今の、たぶん」
真壁が言う。
「分かった」
蓮はまだうまく言葉にできない。
「届かなかったです」
神崎が短く返す。
「届かなかったな」
そのあとで、相沢が言った。
「でも、あれがシンクロだ」
その言葉で、ようやく全員の中の違和感が形になる。
全国には届かなかった。
だが、ただ負けたわけではない。
届かない場所の輪郭と、そこへ向かうための“あり得ない入口”を、四人は同時に見ていた。




