第29話 一本目の予選
男子四百メートル予選の招集所は、県大会より静かで、県大会より息苦しかった。
騒がしくないからこそ、一人ひとりの動きがやけにはっきり見える。
アップシューズを脱ぐ順番、スパイクの紐を締め直す仕草、太腿を叩く手の位置。
誰も無駄なことをしていない。
勝ち上がる前提の所作だった。
蓮は招集で受け取った腰ナンバーを持ち、指定の場所へ座る。
係の確認を受ける間、呼吸だけは深くしようとした。
だが、深くしようと意識するほど、逆に浅くなる。
中学のころから、蓮は県の中では速い側だった。
記録会でも名前は見られる方だったし、注目されない選手ではなかった。
それでも、南関や全国を当然みたいに走る選手たちは、同じ四百をやっていてもどこか競技そのものの密度が違うように見えていた。
いま、その密度の中に自分がいる。
「On your marks」
スタート位置につく合図で、しゃがみ込む。
指先がトラックに触れる。
熱を持ったゴムの感触が妙に鮮明だった。
「Set」
腰を上げる。
視界が狭くなる。
外の音が遠のいて、身体の内側だけがうるさくなる。
鳴った。
最初の加速は悪くない。
県大会なら、これで十分に前へ出られる感覚だった。
だが南関では、その“悪くない”が全員にある。
周りも速い。
しかも、その速さを序盤から乱さずに持ってくる。
二百までの流れで焦らない。
神崎に言われた。
前半で県の感覚を出すな。
相沢にも言われた。
持ってるものを全部見せに行くな。
蓮は外から詰めてくる足音に釣られそうになる脚を、ぎりぎりで抑えた。
コーナーを抜ける。
まだいる。
前と離れ切っていない。
けれど、余裕はない。
三百手前で、一つ内のレーンの選手が滑るように前へ出る。
フォームが崩れていない。
苦しいはずなのに、苦しさが漏れない。
強い、と蓮は思う。
その“強い”を認めた瞬間、自分の肩が少しだけ上がるのが分かった。
しまった、と思った。
でも修正する余裕はもうない。
最後の直線、腕だけは止めなかった。
脚は重い。
けれど止めたらそのまま切れる。
ここで切ったら、南関の一本目はただ怖かっただけで終わる。
ゴール。
二、三歩流れて止まる。
息がうまく入らない。
膝に手をつきそうになるのをこらえて、蓮は掲示板を見た。
表示が出るまでの数秒が長い。
走っている時間より短いはずなのに、待つ時間の方が長く感じる。
ピッ、と音がした。
組二着。
準決勝進出。
タイムの数字を読んだ瞬間、蓮の中でようやく現実が形になる。
抜けた。
南関の個人四百で、一本目を抜けた。
戻ると、真壁が真っ先に言った。
「行ったな」
「……はい」
「顔、死んでますけど」
「南関、きついです」
「だろうな」
瀬川がプログラムを見ながら言う。
「でも、前半の入りは県大会より良かったです」
真壁が横を見る。
「見てて分かるのか」
「分かりますよ。三百のところで少し肩が上がりましたけど、その前までは崩れてませんでした」
蓮は苦く笑った。
「また肩ですか」
「またです」
「嫌ですね、その癖」
「でも、直せる範囲です」
そのとき、招集へ向かう途中の神崎が足を止めた。
「抜けたなら次がある」
「はい」
「そこで同じ崩れ方するな」
「……はい」
「喜ぶのは、全部終わってからにしろ」
「はい」
厳しい。
でも、その厳しさがあるということは、まだ先があるということでもあった。
蓮はタオルで顔を拭きながら、もう一度トラックの方を見た。
予選を抜けた。
それだけで十分なはずなのに、もう準決勝のことを考えている。
南関では、一つ抜けるたびに景色が開くんじゃない。
一つ抜けるたびに、次の壁が近づいてくる。




