第30話 崩れない人
神崎の四百メートルハードル予選は、蓮にとって“うまい”という言葉では足りないレースだった。
スタート地点に立った神崎は、県大会のときと同じ顔をしている。
気負いがないのではなく、気負いを表に漏らさない。
怖がっていないのではなく、怖さも最初からレースの中に含めて整えている顔だ。
西野が小さく言った。
「神崎先輩、ハードルって怖くないんですかね」
蓮はスタート地点を見たまま答える。
「怖いだろ。普通は」
遥がその横で言う。
「でも神崎先輩、怖いの込みで走ってる感じする」
「それ、分かります」
西野がうなずいた。
「嫌がってる感じがしないです。最初からそこにあるものとして走ってるというか」
号砲。
最初の一台までが速い。
そのあとがもっと速く見える。
神崎の走りは“跳ぶ”というより、“刻む”だった。
一台ごとの間が揃い、どこかを無理に伸ばしていない。
周囲の選手がそれぞれの得意なリズムで前へ出ようとする中、神崎だけがレース全体の呼吸を見失っていない。
三台目、四台目。
向こう正面での上下動が少ない。
高く跳ばない。
必要なぶんだけ越え、その先の一歩まで含めて次の動きにしている。
「すご……」
真壁が無意識に声を漏らす。
派手ではない。
でも、落ちない。
もっと前に行く選手はいるかもしれない。
けれど、神崎は最後まで自分のリズムを壊さないから、結果として強い位置に残る。
最後の直線。
前の選手との差を詰め切るほどではない。
それでも確実に決勝へ残る位置で、神崎はレースを閉じた。
組二着。
決勝進出。
戻ってきた神崎に、西野がドリンクを渡す。
「神崎先輩、お疲れさまです」
「ありがとう」
西野は少し迷ってから聞いた。
「やっぱり、ハードルって怖いですか」
神崎はペットボトルの蓋を開けながら答える。
「怖いぞ」
「え」
「怖くないと雑になる」
「……そういうものなんですか」
「そういうものだ」
遥が少しだけ笑った。
「それ聞くと余計すごいですね」
「別にすごくはない」
「いや、すごいですって」
「お前は簡単に言うな」
「事実ですし」
神崎はそこでようやく、ほんの少しだけ表情を緩めた。
蓮はその横顔を見ながら、自分の四百を思い返していた。
怖さに飲まれないようにして走っていたつもりだった。
でも、神崎は違う。
怖さを消していない。
怖さのまま整えている。
相沢が蓮の横で言う。
「見えたか」
「はい」
「神崎は、崩れないんじゃない」
「え」
「崩れそうになる手前で、毎回小さく戻してる」
「……そこまで見えませんでした」
「見えなくていい。今は分からなくても、見ようとしろ」
神崎がその話を聞いていたのか、こちらを振り返る。
「朝倉」
「はい」
「お前の四百も同じだ」
「はい」
「崩れてから直すな。崩れる前に気づけ」
「……やってみます」
「やるんだよ」
引き渡されるような言葉だった。
蓮はまっすぐうなずいた。
南関で勝つには、速いだけでは足りない。
それを、神崎の走りは何も誇張せずに教えていた。




