第13話 ハードルの人
神崎の400mハードルの時間が近づくと、潮見の空気は少し変わった。
部長の個人種目。
しかも、県で上を狙える種目だ。
誰も騒がない。
だが、全員が気にしている。
蓮はスタンド上段から、ハードルが並ぶレーンを見下ろした。
平地の400mと違って、そこには明確な障害がある。
それなのに、神崎はいつもあれを“越える競技”として見ていないように見えた。
「神崎先輩って、ハードル怖くないのかな」
隣の遥に聞くと、遥は少し考えてから言った。
「怖くない人なんじゃなくて、怖くても崩れない人なんじゃない」
蓮はその言葉を反芻する。
怖くないんじゃない。
怖くても、崩れない。
スタート地点で、神崎は一度だけ足元を見た。
何歩で入るか、何歩で刻むか。
それを確認しているのだろう。
相沢が手すりにもたれたまま言う。
「神崎は、ずれたあとに戻すのがうまい」
蓮が振り向くと、相沢は下のレーンを見たまま続けた。
「ハードルって、全部完璧には行かない。どっかで微妙にずれる。そのあと何歩で戻すかだ」
「……マイルみたいですね」
相沢が小さく笑う。
「そう。だからあいつが四走なんだよ」
号砲。
神崎のスタートは派手ではない。
だが、一台目へ入るまでにもう形ができている。
無理がない。
詰めすぎない。
遅くも見えない。
一台、二台、三台。
跳ぶというより、切る。
着地で流れない。
止まらない。
第三コーナーに入っても、リズムは大きく崩れなかった。
完全に同じではない。
それでも、ずれたこと自体を前提に走っているような強さがあった。
第四コーナー、最後のハードル。
そこを越えた瞬間、神崎の姿勢が少し前へ伸びる。
無理やり上げるのではなく、止まらずに最後まで行く走り。
一着。
真壁が思わず呟く。
「やっぱすげえな……」
「きれいでした」
西野も目を見張る。
瀬川はモニターを確認していた。
「やはり後半です。前半で整えて、後半で崩していない」
戻ってきた神崎に、蓮は思わず声をかけた。
「神崎先輩」
「何だ」
「……すごかったです」
神崎は少しだけ眉を上げる。
「見てたなら分かるだろ。速いだけじゃない」
「はい」
「四百も、マイルも同じだ。崩れたあとに戻せるかだ」
その一言が、蓮の中に残った。
走れる人が見ているもの。
走れない人が見ているもの。
それは違うようで、同じところへ向いている気がした。




