第10話 戻ってきた人
五月の朝は、もう春の柔らかさだけではなかった。
空は高いのに、空気には張りがある。
競技場の門の前に立つだけで、今日ここが地区大会とは違う場所だと分かった。
県立潮見高校の部員たちが三ツ沢の競技場前に集まったのは、開門の少し前だった。
「人、多いな……」
西野が小さく言って、バッグの持ち手を握り直す。
その横で真壁が眠そうな目をこすった。
「県なんだから当たり前だろ。地区とは違うんだよ」
「分かってますけど、やっぱり圧あります」
「お前は毎回圧感じてんな」
「真壁先輩は感じないんですか」
「感じるけど、認めたくないだけ」
蓮は競技場の門を見上げた。
日差しの白さ、アナウンスの反響、アップを始める選手たちの足音。
地区大会のときより、人も音も多い。
なのに、どれも少し遠い。
「遥、もう来てたのか」
振り向くと、遥が帽子のつばを押さえながら歩いてきた。
「蓮たちが早すぎるだけ。神崎先輩が集合早めたんでしょ」
「たぶん」
「たぶんって」
遥は笑って、それから少しだけ声を落とした。
「緊張してる?」
「してる」
「よかった」
「なんでだよ」
「してないって言われたら、逆に心配するから」
言い返しかけたところで、神崎が視線を門の外へ向けた。
それにつられて全員が振り向く。
ひとりの男が、少し足をかばうような歩幅でこちらへ来る。
長身ではない。
だが、歩き方に無駄がない。
左脚に薄いサポーター。
手には小さめのバッグだけ。
西野が最初に気づいた。
「あ……相沢先輩」
男は近くまで来ると、軽く手を上げた。
「久しぶり」
真壁が口の端を上げる。
「ほんとに来たんすね、相沢先輩」
「来るだろ。最後の県なんだから」
相沢隼人。
三年、副部長。
蓮がこれまで会ったことのなかった、もう一人の三年だった。
蓮は少し遅れて頭を下げる。
「朝倉蓮です。……一年です」
相沢は蓮を見た。
厳しい目だったが、敵意はなかった。
ただ、測るように見ている。
「知ってる」
それだけ言って、相沢は視線を外した。
神崎が全員に声をかける。
「荷物を置いたらアップに入る。浮つくな。県だからって、急にやることが増えるわけじゃない」
真壁が小さく笑う。
「その“浮つくな”が一番むずいんすよ」
「だから言ってる」
神崎の声は短い。
けれど、それだけで少し空気が締まる。
相沢が蓮の横を通りながら、低く言った。
「朝倉」
「はい」
「今日はまず、一人でちゃんと走ってこい」
蓮は思わず顔を上げた。
「つなぐことは、そのあと考えろ」
相沢はそこで立ち止まらなかった。
そのまま神崎の隣へ並ぶ。
流れを見ている人と、最初の一歩を見ている人。
そんなふうに見えた。
競技場の門が開く。
人の波が動き始める。
県大会が、始まった。




