第9話 シンクロ
レースの日の朝は、いつも少しだけ静かだ。
校門の前に集まった四人も、今日は余計なことをあまり言わなかった。
真壁はアップを始める前から脚を鳴らしていて、瀬川は荷物を確認し、西野は給水と記録のファイルを抱えている。
遥はタイマーを首にかけ、神崎は全員の顔だけをひと通り見た。
「緊張してるやつ」
神崎が言う。
真壁がすぐに手を挙げる。
「はい」
「正直だな」
「隠してもバレるんで」
少しだけ笑いが起きる。
その軽さがありがたかった。
「朝倉」
「はい」
「今日は最後で止まるな」
「……はい」
「真壁」
「はい」
「飛ばしすぎるな」
「善処します」
「瀬川」
「はい」
「まとめすぎるな」
「善処します」
西野が横で吹き出しそうになるのをこらえていた。
遥も少しだけ口元を緩める。
神崎は最後に、短く言った。
「勝ちにいく。 でも、それだけじゃない」
誰も返事はしなかった。
しなくても、分かる言い方だった。
◆
会場はこれまででいちばん人が多かった。
大きな大会ではない。
けれど、ここを抜ければ次へつながる。
その意味を、全員が知っている。
招集を終え、レーンへ向かう。
真壁がスタート位置につく。
瀬川は二走の場所へ。
蓮は三走の位置で、トラックの曲がり方をじっと見た。
第三コーナーと第四コーナー。
苦しくて、逃げたくて、それでも前を落とせない場所。
昔から、あそこが自分の勝負どころだった。
そして今は、ただ前へ出るだけの場所じゃない。
受け取って、運んで、渡す。
今日の三走は、その全部だ。
遥はスタンド下から、四人を順番に見た。
同じチームなのに、持っている緊張の形はみんな違う。
それでも今日、同じ一秒に入れたらと思う。
スターターの声。
静まり返る空気。
乾いたピストル音。
真壁が飛び出した。
速い。
最初の一歩から、今日は明らかに違った。
勢いがあるのに荒れていない。
押しすぎず、でも引かず、前へ必要なだけ熱を乗せていく走りだった。
真壁はそのままレーンを押し切り、二走の瀬川へつなぐ。
瀬川が受けて、自分の区間のリズムへ入る。
真壁の勢いを殺さない。
けれど暴れさせもしない。
受け取った熱を、自分の呼吸にきちんと落とし込みながら前へ運んでいく。
今日の瀬川は整えすぎない。
整えた先で、ちゃんと前へ流している。
蓮は受け位置で半身になり、肩越しに一度だけ後ろを見る。
「朝倉くん!」
声。
掌。
パシ。
受けた瞬間、今日の一歩目は軽かった。
いつも少しだけ重くなるはずの最初の一歩が、今日は沈まない。
前から来た呼吸が、そのまま自分の脚へ入る。
無理に走り始める感覚がない。
最初からこの区間の中にいたみたいに、身体が自然に前へ出る。
第一コーナーへ入る。
肩は上がらない。
接地がぶれない。
脚が地面に弾かれるたび、余計な力だけがきれいに抜けていく。
第二コーナーを抜ける。
フォームはまだ崩れない。
むしろ、ここまでは静かだった。
そしてバックストレートが開ける。
そこで、ざわめきが起きた。
速い。
それはもう、同じチームの人間だけが知っている速さじゃなかった。
スタンドの端にいた他校の選手が顔を上げる。
顧問たちの視線が一度に集まる。
中学時代の蓮を知っている誰かが、思わず息をのむ。
「……誰だ、あれ」
「三走の一年だろ」
「まじかよ、まだ伸びるのか」
小さな声が、いくつも風に混じる。
蓮は聞いていない。
聞こえてもいない。
ただ、前へ出る。
バックストレートの中ほどで、蓮の走りはもう一段変わった。
単に速いだけじゃない。
前から受け取った流れを、自分のものにしすぎず、そのまま高い位置へ持ち上げている。
真壁の熱。
瀬川の整えたリズム。
それがまだ身体の奥で切れていない。
第三コーナー。
四百メートルで、いちばん苦しい場所。
肺が焼け、脚の内側に重さがたまる。
普通なら、ここで少しずつ削られる。
フォームがほどけ、勢いが落ち、前へ出る力が鈍る。
でも、今日の蓮は違った。
苦しい。
苦しいのに、落ちない。
むしろそこから、さらに伸びる。
第三コーナーから第四コーナーにかけて、蓮の走りはもう一段前へ出た。
沈みそうになる身体を押し返すのではなく、苦しさごと前へ運んでいく。
中学の頃、誰も追いつけなかったあの伸びが、今ははっきり戻っていた。
スタンドのざわめきが広がる。
他校の控え選手まで、思わず身を乗り出している。
「何だ、あれ……」
「三走だろ、あいつ」
「まだ伸びるのかよ」
「まじかよ……」
第四コーナーへ入る。
ペースは落ちない。
フォームもくずれない。
むしろ、ここがいちばんきれいだった。
身体は限界に近い。
それなのに、前へ行くことが怖くない。
今日の自分は、一人で前に出ているんじゃない。
真壁の勢いがある。
瀬川の整えたリズムがある。
この区間は、自分だけのものじゃない。
だから最後も、終わらせなくていい。
置いていくんじゃない。
渡す。
それだけを思って、蓮はホームストレートへ飛び込んだ。
前には神崎。
手が開く。
蓮は、もう迷わなかった。
その瞬間、余計な音が全部ひとつ遅れた。
風の音。
足音。
観客のざわめき。
喉の奥の痛み。
消えたわけじゃない。
ただ、順番だけが揃う。
神崎の掌。
蓮の呼吸。
踏み出す足。
後ろで見ている仲間たちの気配。
四人分の時間が、ほんの一瞬だけ同じ場所に入る。
バトンが触れるより前に、つながった感覚が来た。
——来た。
パシ、という音が、そのあとを追いかけるみたいに鳴る。
世界が、ほんの少しだけ遅れる。
0.1秒にも満たない。
でも、誰にも見間違えられないくらい確かなずれだった。
神崎が前へ出る。
速い。
受け取った勢いを殺さず、そのままゴールへ持っていく。
脚にはまだ不安があるはずなのに、今日はそれを感じさせない。
最後の直線。
神崎が一人で走っているようには見えなかった。
ゴール。
◆
数秒遅れて、息だけが戻ってくる。
真壁が膝に手をつき、瀬川は肩で呼吸をし、西野は記録掲示の方へ走る。
遥はタイマーを握ったまま、しばらく動けなかった。
「……今の」
真壁が最初に言う。
「ありましたよね」
瀬川が続ける。
神崎が息を整えながら、蓮を見る。
蓮も、神崎を見る。
言葉にしなくても分かる顔だった。
今日の最後は、今までとは違った。
西野が戻ってくる。
少し息を切らしながら、でも顔は明るい。
「通りました!」
「何が」
真壁が顔を上げる。
「次、行けます! タイムで拾われました!」
一着ではない。
勝ったわけでもない。
でも、次につながった。
真壁がその場で息を吐き出すみたいに笑う。
「マジかよ」
瀬川も珍しく、はっきり笑った。
「良かったです」
蓮はまだ、実感より先にあの一瞬の感覚を反芻していた。
受け渡した、より先に、四人が重なった感じ。
神崎が短く言う。
「今のを忘れるな」
「はい」
蓮はすぐに答えた。
今まででいちばん素直に。
◆
帰り道、真壁が珍しく蓮の横に並んだ。
「朝倉」
「はい」
「今日の最後」
「……はい」
「別に、認めたわけじゃない」
蓮は思わず少しだけ笑いそうになる。
それに真壁が気づいて眉をひそめた。
「何だよ」
「いえ」
「でも」
真壁は前を向いたまま続ける。
「今日のは、ちゃんとすごかった」
短い言葉だった。
飾らないぶんだけ、まっすぐ入る。
「ありがとうございます、助かりました」
「その言い方、まあ今日はいいや」
そんな会話だけで、少し救われる。
少し前まで、自分はここにいるつもりなんかなかった。
でも今は、少なくともこの四人で走った一秒を、自分の中から消したくないと思っている。
◆
夕方、片づけが終わったあと、遥は一人でノートを開いた。
真壁先輩 最初の勢いを押し切った。
瀬川先輩 整えすぎずにつないだ。
蓮 最後で止まらなかった。
神崎先輩 受け止めて、前へ出た。
少し空けて、最後に書く。
足りないままでも、四人は同じ一秒に入れた。
その一秒のあとにだけ、0.1秒の残像は残る。
ノートを閉じる前に、遥はもう一度だけ今日の記録表を見る。
通過校の欄に並んだ学校名の中に、ひとつだけ、神崎が無言で目を止めた名前があった。
東陵大附属。
強い、と一目で分かる名前だった。
遥がその校名を小さくメモすると、神崎が短く言う。
「次は、もっと速い」
蓮はその名前を覚えた。
まだ見ぬ相手のはずなのに、胸の奥が少しだけ鳴った。




