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第9話 シンクロ

レースの日の朝は、いつも少しだけ静かだ。


校門の前に集まった四人も、今日は余計なことをあまり言わなかった。


真壁はアップを始める前から脚を鳴らしていて、瀬川は荷物を確認し、西野は給水と記録のファイルを抱えている。


遥はタイマーを首にかけ、神崎は全員の顔だけをひと通り見た。


「緊張してるやつ」


神崎が言う。


真壁がすぐに手を挙げる。


「はい」


「正直だな」


「隠してもバレるんで」


少しだけ笑いが起きる。


その軽さがありがたかった。


「朝倉」


「はい」


「今日は最後で止まるな」


「……はい」


「真壁」


「はい」


「飛ばしすぎるな」


「善処します」


「瀬川」


「はい」


「まとめすぎるな」


「善処します」


西野が横で吹き出しそうになるのをこらえていた。


遥も少しだけ口元を緩める。


神崎は最後に、短く言った。


「勝ちにいく。 でも、それだけじゃない」


誰も返事はしなかった。


しなくても、分かる言い方だった。



会場はこれまででいちばん人が多かった。


大きな大会ではない。


けれど、ここを抜ければ次へつながる。


その意味を、全員が知っている。


招集を終え、レーンへ向かう。


真壁がスタート位置につく。


瀬川は二走の場所へ。


蓮は三走の位置で、トラックの曲がり方をじっと見た。


第三コーナーと第四コーナー。


苦しくて、逃げたくて、それでも前を落とせない場所。


昔から、あそこが自分の勝負どころだった。


そして今は、ただ前へ出るだけの場所じゃない。


受け取って、運んで、渡す。


今日の三走は、その全部だ。


遥はスタンド下から、四人を順番に見た。


同じチームなのに、持っている緊張の形はみんな違う。


それでも今日、同じ一秒に入れたらと思う。


スターターの声。


静まり返る空気。


乾いたピストル音。


真壁が飛び出した。


速い。


最初の一歩から、今日は明らかに違った。


勢いがあるのに荒れていない。


押しすぎず、でも引かず、前へ必要なだけ熱を乗せていく走りだった。


真壁はそのままレーンを押し切り、二走の瀬川へつなぐ。


瀬川が受けて、自分の区間のリズムへ入る。


真壁の勢いを殺さない。


けれど暴れさせもしない。


受け取った熱を、自分の呼吸にきちんと落とし込みながら前へ運んでいく。


今日の瀬川は整えすぎない。


整えた先で、ちゃんと前へ流している。


蓮は受け位置で半身になり、肩越しに一度だけ後ろを見る。


「朝倉くん!」


声。


掌。


パシ。


受けた瞬間、今日の一歩目は軽かった。


いつも少しだけ重くなるはずの最初の一歩が、今日は沈まない。


前から来た呼吸が、そのまま自分の脚へ入る。


無理に走り始める感覚がない。


最初からこの区間の中にいたみたいに、身体が自然に前へ出る。


第一コーナーへ入る。


肩は上がらない。


接地がぶれない。


脚が地面に弾かれるたび、余計な力だけがきれいに抜けていく。


第二コーナーを抜ける。


フォームはまだ崩れない。


むしろ、ここまでは静かだった。


そしてバックストレートが開ける。


そこで、ざわめきが起きた。


速い。


それはもう、同じチームの人間だけが知っている速さじゃなかった。


スタンドの端にいた他校の選手が顔を上げる。


顧問たちの視線が一度に集まる。


中学時代の蓮を知っている誰かが、思わず息をのむ。


「……誰だ、あれ」


「三走の一年だろ」


「まじかよ、まだ伸びるのか」


小さな声が、いくつも風に混じる。


蓮は聞いていない。


聞こえてもいない。


ただ、前へ出る。


バックストレートの中ほどで、蓮の走りはもう一段変わった。


単に速いだけじゃない。


前から受け取った流れを、自分のものにしすぎず、そのまま高い位置へ持ち上げている。


真壁の熱。


瀬川の整えたリズム。


それがまだ身体の奥で切れていない。


第三コーナー。


四百メートルで、いちばん苦しい場所。


肺が焼け、脚の内側に重さがたまる。


普通なら、ここで少しずつ削られる。


フォームがほどけ、勢いが落ち、前へ出る力が鈍る。


でも、今日の蓮は違った。


苦しい。


苦しいのに、落ちない。


むしろそこから、さらに伸びる。


第三コーナーから第四コーナーにかけて、蓮の走りはもう一段前へ出た。


沈みそうになる身体を押し返すのではなく、苦しさごと前へ運んでいく。


中学の頃、誰も追いつけなかったあの伸びが、今ははっきり戻っていた。


スタンドのざわめきが広がる。


他校の控え選手まで、思わず身を乗り出している。


「何だ、あれ……」


「三走だろ、あいつ」


「まだ伸びるのかよ」


「まじかよ……」


第四コーナーへ入る。


ペースは落ちない。


フォームもくずれない。


むしろ、ここがいちばんきれいだった。


身体は限界に近い。


それなのに、前へ行くことが怖くない。


今日の自分は、一人で前に出ているんじゃない。


真壁の勢いがある。


瀬川の整えたリズムがある。


この区間は、自分だけのものじゃない。


だから最後も、終わらせなくていい。


置いていくんじゃない。


渡す。


それだけを思って、蓮はホームストレートへ飛び込んだ。


前には神崎。


手が開く。


蓮は、もう迷わなかった。


その瞬間、余計な音が全部ひとつ遅れた。


風の音。


足音。


観客のざわめき。


喉の奥の痛み。


消えたわけじゃない。


ただ、順番だけが揃う。


神崎の掌。


蓮の呼吸。


踏み出す足。


後ろで見ている仲間たちの気配。


四人分の時間が、ほんの一瞬だけ同じ場所に入る。


バトンが触れるより前に、つながった感覚が来た。


——来た。


パシ、という音が、そのあとを追いかけるみたいに鳴る。


世界が、ほんの少しだけ遅れる。


0.1秒にも満たない。


でも、誰にも見間違えられないくらい確かなずれだった。


神崎が前へ出る。


速い。


受け取った勢いを殺さず、そのままゴールへ持っていく。


脚にはまだ不安があるはずなのに、今日はそれを感じさせない。


最後の直線。


神崎が一人で走っているようには見えなかった。


ゴール。



数秒遅れて、息だけが戻ってくる。


真壁が膝に手をつき、瀬川は肩で呼吸をし、西野は記録掲示の方へ走る。


遥はタイマーを握ったまま、しばらく動けなかった。


「……今の」


真壁が最初に言う。


「ありましたよね」


瀬川が続ける。


神崎が息を整えながら、蓮を見る。


蓮も、神崎を見る。


言葉にしなくても分かる顔だった。


今日の最後は、今までとは違った。


西野が戻ってくる。


少し息を切らしながら、でも顔は明るい。


「通りました!」


「何が」


真壁が顔を上げる。


「次、行けます! タイムで拾われました!」


一着ではない。


勝ったわけでもない。


でも、次につながった。


真壁がその場で息を吐き出すみたいに笑う。


「マジかよ」


瀬川も珍しく、はっきり笑った。


「良かったです」


蓮はまだ、実感より先にあの一瞬の感覚を反芻していた。


受け渡した、より先に、四人が重なった感じ。


神崎が短く言う。


「今のを忘れるな」


「はい」


蓮はすぐに答えた。


今まででいちばん素直に。



帰り道、真壁が珍しく蓮の横に並んだ。


「朝倉」


「はい」


「今日の最後」


「……はい」


「別に、認めたわけじゃない」


蓮は思わず少しだけ笑いそうになる。


それに真壁が気づいて眉をひそめた。


「何だよ」


「いえ」


「でも」


真壁は前を向いたまま続ける。


「今日のは、ちゃんとすごかった」


短い言葉だった。


飾らないぶんだけ、まっすぐ入る。


「ありがとうございます、助かりました」


「その言い方、まあ今日はいいや」


そんな会話だけで、少し救われる。


少し前まで、自分はここにいるつもりなんかなかった。


でも今は、少なくともこの四人で走った一秒を、自分の中から消したくないと思っている。



夕方、片づけが終わったあと、遥は一人でノートを開いた。


真壁先輩 最初の勢いを押し切った。


瀬川先輩 整えすぎずにつないだ。


蓮 最後で止まらなかった。


神崎先輩 受け止めて、前へ出た。


少し空けて、最後に書く。


足りないままでも、四人は同じ一秒に入れた。


その一秒のあとにだけ、0.1秒の残像は残る。


ノートを閉じる前に、遥はもう一度だけ今日の記録表を見る。


通過校の欄に並んだ学校名の中に、ひとつだけ、神崎が無言で目を止めた名前があった。


東陵大附属。


強い、と一目で分かる名前だった。


遥がその校名を小さくメモすると、神崎が短く言う。


「次は、もっと速い」


蓮はその名前を覚えた。


まだ見ぬ相手のはずなのに、胸の奥が少しだけ鳴った。

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