第8話 第3コーナー
夜のグラウンドは、昼より少しだけ正直だ。
人が少なくなって、音が減って、見なくていいものまで見えてしまう。
朝倉蓮は、一人で第三コーナーに立っていた。
部活が終わったあと、帰る気になれなかった。
白線の曲がり方を見ていると、いつもここで何かが変わる気がする。
四百メートルのいちばんきつい場所。
息が上がって、脚が重くなって、それでも前を落とせない場所。
昔から、ここで勝負が決まることが多かった。
そして今も、たぶん何かが決まっている。
「やっぱりいた」
後ろから声がして、蓮は振り向かなくても分かった。
「……お前、見つけるの得意だな」
「見てるから」
遥が隣まで来る。
夜風で前髪が少し揺れていた。
「帰らないの」
「そのつもりだった」
「そのつもり、ばっかり」
蓮は小さく息を吐いた。
反論しないのは、だいたい図星のときだ。
しばらく二人で黙って、第三コーナーの白線を見る。
先に口を開いたのは遥だった。
「蓮」
「何」
「あの日、蓮が止まった理由、ずっと考えてた」
その言葉で、空気が少し変わる。
蓮は視線を上げなかった。
上げたら、もうごまかせない気がした。
「……急だな」
「ずっと言えなかっただけ」
責める声ではなかった。
だから余計に逃げにくい。
「勝てたよね、あの日」
遥が静かに言う。
「たぶん」
「でも止まった」
「……うん」
「何で」
短い問いだった。
まっすぐで、逃げ道がない。
蓮はすぐには答えなかった。
答えた瞬間に、ずっと曖昧にしてきたものが本当になってしまう気がした。
でも、遥は待つ。
急かさない。
見ているだけの人の待ち方で、じっと待つ。
「……横が見えたんだよ」
やっと出た声は、思ったより小さかった。
「横?」
「苦しそうな顔」
誰の、と遥は聞かなかった。
「みんな苦しかったと思う。あのレースだけじゃなくて、ずっと。 頑張っても届かないやつとか、もう無理って顔してるやつとか、そういうのが急に全部見えた」
蓮は言葉を探しながら続ける。
「その中で、自分だけ前に出るのが、急に嫌になった」
夜風が吹く。
遠くで部室のドアが閉まる音がした。
「勝つっていうより、置いていくみたいに見えた」
そこで初めて、遥がゆっくり息を吐いた。
「そっか」
それだけだった。
理解したとも、分かるとも言わない。
でも、その一言は軽くなかった。
「変だろ」
蓮が自分で言う。
「変じゃない」
遥はすぐに返した。
「苦しい人の顔が見えたまま、平気で前に出られる人ばっかりじゃないよ」
その言葉に、蓮は少しだけ救われた気がした。
肯定されたというより、異常じゃない場所へ戻された感じだった。
「でも、それで止まったら意味ないだろ」
「一人で走るなら、そうかもね」
遥は白線の先を見る。
「でも今の蓮、一人で走ってないじゃん」
蓮が顔を上げる。
「リレーは、前に出ることと、置いていくことが同じじゃないよ」
言い方は静かだった。
押しつける温度じゃない。
「受け取って、運んで、渡す。 一人で終わらなくていい」
蓮は何も言わない。
「蓮が怖かったのって、自分だけ前に行くことなんでしょ」
「……たぶん」
「なら、一人で前に行かなくていい形で走ればいい」
遥はそこで、少しだけ笑った。
「今、そういう競技やってるじゃん」
その言葉で、蓮はようやく少しだけ息を吐いた。
皮肉みたいなのに、妙にまっすぐで、返す言葉がない。
「蓮さ」
「何」
「置いていくんじゃなくて、渡せばいいんだよ」
その一言だけが、夜のトラックに静かに残る。
説教じゃない。
励ましとも少し違う。
でも、蓮の中で長く固まっていた何かに、ようやく別の名前がついた気がした。
前に出る。
終わらせる。
置いていく。
その三つが、ずっと同じものに見えていた。
でも、渡す、という言葉だけがそこから外れている。
「……お前、たまにずるいな」
「たまにじゃないよ」
「いや、たまにだろ」
そんなやりとりをしただけで、少しだけ救われる。
大げさじゃない形で。
◆
翌朝の空はよく晴れていた。
グラウンドに出ると、真壁がすでにスタートの確認をしている。
瀬川はマーカーを並べ、西野はボトルを出していた。
神崎はホワイトボードの前に立っている。
「朝倉」
神崎が言う。
「今日も走順は変えない。真壁、瀬川、朝倉、俺」
「はい」
蓮はいつもより早く返した。
その声に、真壁がちらっと振り返る。
瀬川も少しだけ目を上げる。
遥は少し離れたところで、何も言わずに見ていた。
「神崎先輩」
蓮が自分から言う。
「もう一本、多くやらせてください」
真壁が露骨に驚いた顔をする。
「朝倉が言った」
「聞こえてる」
神崎は蓮を見る。
何かを確かめるみたいに、少しだけ長く。
「理由は」
問われて、蓮は一瞬だけ迷った。
でも、今は前より少しだけ答えられる。
「最後で止まらないようにしたいです」
神崎は小さく頷いた。
「分かった」
その返事だけで十分だった。
◆
一本目から、前日までと少し違った。
真壁の勢いを瀬川が受ける。
瀬川から蓮へ。
蓮は受けて、第三コーナーから第四コーナーへ入る。
苦しい。
きつい。
でも、前みたいに
「自分だけ前へ出る」
感覚が少し薄い。
今は前から来たものを運んでいる。
そして、次へ渡すために走っている。
その意識だけで、足の入り方が少し変わる。
神崎の手が開く。
蓮はそこへ向かう。
雑にしない。
でも守りすぎない。
持ってきた流れを、そのまま出す。
パシ。
今日はまだ、あの異様なずれは来ない。
でも、流れは死なない。
「今のだ」
神崎が戻ってきて言う。
「続けろ」
短い言葉だった。
でも、その中にちゃんと手応えがあった。
◆
練習の終わり、遥はノートに書いた。
蓮はまだ全部は変わっていない。
でも、最後で止まる理由に、初めて名前がついた。
そして、その下に続ける。
前へ行くのが怖いなら、一人で終わらなければいい。
さらにもう一行。
置いていくんじゃなくて、渡せばいい。
書きながら、少しだけ手が止まる。
自分が言った言葉なのに、後から効いてくる。
第三コーナーの風は、昼より夜のほうが本当のことを言う。
遥はそんなことを、少しだけ思った。




