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119 算段

 石澤英樹が湖へと落ちるのを目の当たりにし、進路を阻まれていた三河会の者たちから、驚愕と怒りの叫び声が上がった。

 「石澤さん――!!」

 「てめぇら……ぶっ殺す!」

 怒りに任せ、前に出ようとする者たちもいる。

 だが、その瞬間――白川が声を張り上げた。

 「やめろ! 今突っ込んでも無駄死にだ。撤退しろ。

 ……すべての責任は、私が取る」

 「しかし……」

 なおも食い下がろうとする声が上がる。

そのとき、石澤の腹心の一人が一歩前に出た。

 「……撤退だ。石澤さん不在の今、指揮官は白川さんだ」

 その言葉に、三河会の面々は歯噛みしながらも、次々と撤退の準備に入っていった。

 「逃がすと思うか?」

 柏は状況を見て、即座に黒楓会へ指示を飛ばした。

 それに呼応するように、スコートファミリーの派遣部隊も銃を構え、白川たちへ照準を向ける。

 誰かの指は、すでに引き金に掛かっている――その瞬間だった。

 一般企業のロゴを付けたトラックが一台、何事もないかのように現場へと走り込んでくる。

 白川は、その一瞬の隙を逃さなかった。

部下を促し、素早く車両へ乗り込むと、そのまま現場を離脱する。

 柏は舌打ちし、手を上げて制止の合図を送った。

 ――ここで発砲すれば、すべてが台無しになる。

 やがてトラックが近づき、運転席の男は、目の前に広がる惨状――倒れた人間、血に染まった地面を見て、思わず言葉を失った。

 驚いた様子で車窓を下ろす。

 「……何かあったんですか? 救急車、呼びましょうか?」

 柏は即座に応じた。

 「ああ、大丈夫です。ここ、撮影現場なんですよ。

 ご迷惑をおかけしてすみませんが、すぐに交通誘導を入れます」

 そう言うと同時に、後方から作業員風の服装をした男が、誘導棒を手に小走りで現れた。

 その作業服――

 先ほど、三河会の人間が身に着けていたものと同じだった。

 運転手はどこか腑に落ちない様子だったが、後方に白人の男たちが銃を構えているのを目にし、

 ――外国映画の撮影か何かだろう。

 そう納得したのか、苦笑いで一声返し、誘導に従って車を走らせていった。

 それを見届けると、黒楓会の面々はすぐさま現場の処理に取りかかる。

 数え切れないほどの修羅場をくぐり抜けてきた彼らにとって、後始末や証拠の隠滅は、もはや手慣れた作業だった。

 今夜の戦闘で、三河会は死傷者二十八名。

 そのうち、最高幹部の一人、三河会副会長"戦鬼"石澤英樹も含まれている。

 スコートファミリーの派遣部隊も八名の死亡者を出している。

 それに対し、黒楓会の被害は負傷者五名のみ。

 死亡者は、一人も出ていなかった。

 


 深夜、早乙女晋作は再び楓と電話を繋いだ。

 「さすがは天下の黒楓会会長、玄野楓様ですね。

 あの"戦鬼"を仕留めるとは……その智略、ただただ感服しますよ」

 『今回は早乙女さんのおかげだ。

 派遣部隊の戦力は実に見事だった。あれほどの部隊があれば、御組もまさに鬼に金棒だろう』

 二人は、互いに当たり障りのない賛辞を並べ合う。

 だが、早乙女晋作の胸中は穏やかではなかった。

 派遣部隊の傭兵は、八名を失っている。

 どう考えても、今回の作戦で自分たちは餌として使われたのだ。

 表面上は笑顔。

 内側では、確かな苛立ち。

 そんな温度差を抱えたまま、通話は続いていく。

 「……それで、例の話ですが」

 そこまで言って、早乙女晋作はあえて言葉を切った。

 楓が何を指しているのか、分からないはずがない。

 ――当然、チェコフの件だ。

 楓は小さく笑う。

 『もちろんだ。約束したことは、必ず果たす』

 「それを聞いて安心しました。では、吉報をお待ちしています」

 そう言って、早乙女は通話を切ろうとする。

 だが、その直前――楓が再び口を開いた。

 『早乙女さん。

 あんたは、早乙女組を率いて、もう一度――茨城県で一番になりたいとは思わないか?

 あんたなら、その器はあると思っている』

 ……。

 沈黙。

 だが、電話は切られなかった。

 数十秒か、それとも数分か。

 重い間を挟んで、ようやく早乙女が口を開く。

 「玄野さんの言う"一番"というのは……

三河会を、という意味ですか?」

 『くく。あんたほどの男なら、分かっているはずだ』

 楓が本当に伝えたかったのは、三河会をどうするか、という話だけではない。

 ――「あんたが、早乙女組を率いる」という前提。

 それこそが、この言葉の核心だった。

 電話の向こうで、早乙女は静かに息を吐いた。

 早乙女晋作は電話を握ったまま、思わず振り返った。

 視線の先には、三男・裕作の遺影を前に、呆然と立ち尽くす父――早乙女正晋の姿がある。

 その光景を目にした瞬間、晋作の目から、温度がすっと消えた。

 本当のところ、晋作は昔からそう考えていた。

 早乙女家の三兄弟の中で、長男は幼くして亡くなり、残された中で最も才覚があったのは自分だ。

 それにもかかわらず、父・早乙女正晋が目をかけたのは、いつも末子の裕作だった。

 女遊びに明け暮れ、キャバクラに入り浸るだけの男。

 組のことなど何ひとつ理解していない、どうしようもない存在だ。

 それでも父は、若中を裕作の側につけ、まるで次を継がせるかのような素振りを見せていた。

 その事実が、晋作の胸に長年、澱のような怨嗟を溜め込ませていた。

 だからこそ――

 裕作が殺されたと聞いたとき、晋作の胸に深い悲しみは湧かなかった。

 彼にとってそれは、ただ目障りなものが、ようやく消えただけの出来事だった。

 楓の言葉の真意を悟った瞬間、早乙女晋作は表情ひとつ変えなかった。

 だがその胸の内で、心臓が一拍、確かに跳ねた。

 「玄野さんは、本当に驚かせてくれますね。

 ……どうやら、我々の協力関係は、まだしばらく続きそうだ」

 「そう言ってもらえるなら光栄だ。

 では、また改めて連絡しよう」

 それを最後に、通話は切れた。

 電話を置いた楓は、ゆっくりと口角を歪めた。

 ――読みは、当たっていた。

 早乙女晋作。

 やはり、紛れもない野心家だ。

 今は互いに利用し合う関係だが、最後に笑っているのは――間違いなく、自分の方だ。



 土浦、三河会の拠点。

 三河雅と、残る三人の"四柱"が集っていた。

 報告を聞き終えても、三河雅は白川を責めなかった。

 それどころか、淡々とこう言った。

 「判断としては悪くないね。現場の損失は最小限に抑えられている。

 ……やはり、君は優秀だ」

 だが、"戦鬼"石澤英樹という重要な戦力を失った事実は、三河会にとっても痛手である。

 それにもかかわらず、三河雅はその件について、何の感情も示さなかった。

 そのときだった。

 スーツ姿の男が深井玲子のもとへ歩み寄り、身を屈めて耳元で小声の報告をする。

 男は一礼すると、そのまま静かに下がった。

 三河雅が、視線を向ける。

 「……何かあったのかい?」

 深井玲子は、わずかに笑みを浮かべて答えた。

 「先ほど入った情報です。

 黒楓会が、チェコフを早乙女組へ引き渡すようです。

 双方は、明日の昼に会う予定とのこと。ただし、場所はまだ掴めていません」

 三河雅は、静かに指を組んだ。

 加藤昭彦が、低い声で言った。

 その様子から見て、先日の傷はほぼ癒えているようだった。

 「……おそらく、チェコフの引き渡しが、早乙女組が協力する条件だったのでしょう」

 深井玲子は、視線だけを三河雅へと投げる。

 それを受けて、三河雅が問い返した。

 「君は、どう思う?」

 「僭越ですが……これは誘いですね。我々に対する」

 「自分も同意見です」

 白川も続けた。

 三河雅は、意味ありげに頷く。

 「ええ。誘われたのなら、行かないのは失礼だからね」

 「では、取引場所の詳細を調べ――」

 「必要ない」

 「えっ……?」

 三河雅は口元をわずかに歪めた。

 「別に、取引場所へ行くと言った覚えはないよ」


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