120 生贄
翌日、玄野楓は、龍崎と矢崎、そして"影"の隊員数名を連れ、守谷市中心部へ向かっていた。
早乙女組との会合に臨むためだ。
対する早乙女組も、早乙女晋作をはじめ、スコートファミリーの派遣部隊の小隊長ミハイル、さらに数名の幹部を同席させていた。
双方が会談の場に市街地を選んだのは、無意味な衝突を避けるためである。
いかに強大な後ろ盾を持つ組織同士とはいえ、市街地で銃撃戦などを引き起こせば、支払う代償はあまりにも大きい。
そして何より、玄野楓も早乙女晋作も、今この時点で正面から敵対するつもりはなかった。
互いに、相手にはまだ――使い道があると見ていたからだ。
指定された高級料亭に、二つの組織が姿を現した瞬間、場の空気が張り詰めた。
刺すような殺気が満ち、互いの存在を拒む不穏な気配が漂う。
だが楓は、あえて不敵な笑みを浮かべ、歩み寄って早乙女晋作に声をかけた。
「数日ぶりだね、早乙女さん。元気そうで何よりだ」
「玄野さんこそ。前に会った時より、ずいぶん血色がいいようですね」
早乙女晋作も余裕を崩さぬ笑みで応じる。
二人が長机の端と端に腰を下ろすと、同行してきた男たちは、示し合わせたかのようにそれぞれ主の背後へと控えた。
しかし、本題である"チェコフ"の身柄引き渡しについて、二人が口を開く気配はない。
代わりに始まったのは、茨城県の今後を巡る雑談だった。
まるで旧知の仲が茶飲み話でもしているかのような、白々しいやり取り。
やがて、その弛緩した空気に耐えきれなくなったのか、早乙女の背後に立つ白人の男が身を乗り出した。
男は早乙女の耳元に顔を寄せ、低く掠れたロシア語で囁く。
「晋作さん、チェコフさんの件はどうなっているんです?
向こうに、彼の姿が見当たりませんが……」
早乙女は視線すら動かさず、落ち着き払った声で答えた。
「焦るな。こちらが急いていると悟られれば、向こうに言い値を吊り上げる口実を与えるだけですよ。
あなたも、チェコフさんに万が一のことがあっては困るでしょ?」
ミハイルは、その言葉を受けて口を閉ざした。
交渉に関しては、早乙女の方が一枚上手だ――そう理解し、それ以上踏み込むのをやめる。
楓は、その二人のやり取りを、ただ静かに、薄く笑みを浮かべたまま見つめていた。
さらに三十分が経過する。
場を支配する沈黙に、誰もが次第に耐えきれなくなり始めた、その時だった。
黒楓会と早乙女組――双方のもとで、ほぼ同時に携帯電話が鳴り響く。
矢崎は通話を終えると、楓の傍らへと歩み寄り、声を潜めて告げた。
「会長……やはり、来ました」
楓は短く頷き、ゆっくりと早乙女晋作へ視線を移す。
一方、早乙女の側にも何らかの報せが入ったようだった。
だが彼は、部下の言葉を片手で制し、そのまま楓を正面から見据えた。
「早乙女さん。
どうやら、そちらも厄介事を抱え込んだようだな」
楓の問いかけに、早乙女は不敵に口角を上げる。
「ええ……まあ。
我々で片のつく問題でしょう。
それより玄野さん、そちらのほうは大丈夫なんですかな?」
「くくっ……ご心配なく。
一度口にした約束を反故にするほど、俺は落ちぶれちゃいない」
二人が含みのある言葉を交わしているその裏で、それぞれの拠点は、すでに不穏な火種に包まれていた。
つくば市。
黒楓会の臨時拠点となっている倉庫へ、白昼堂々、武装した一団がなだれ込む。
白川優樹率いる極刀会と石澤の部下たちだった。
その中には、黒楓会にとっても馴染み深い顔ぶれ――
九条師範代や近藤の姿もある。
日中の工業団地という場所柄、銃声は御法度だ。
必然的に火花を散らすのは、剥き出しの白刃だった。
だが、九条のような剣術の達人を前に、拠点を守る柏ら黒楓会の幹部たちは、防戦一方に追い込まれていく。
もっとも、それは理由がある。
――過度な抵抗はするな。
それは、楓から事前に下されていた密命でもあった。
一方、つくばの別の一角。
重厚な佇まいを見せる洋館に構えられた早乙女組の拠点もまた、強襲を受けていた。
先陣を切るのは、男装の麗人。
三河会が誇る"四柱"の一人、深井玲子である。
極刀会による襲撃と比べても、こちらの蹂躙ぶりは凄まじかった。
それも当然の話だ。
早乙女晋作は出発前に、戦力の大半を別の場所へと退避させていた。
この場に残されていたのは、わずか数十名の警備に過ぎない。
抵抗は、最初から長くはもたなかった。
建物の最奥へ踏み込んだ瞬間、スーツ姿の男が血相を変えて深井玲子の前に飛び出してきた。
「お、お嬢様! 大変です……!」
今なお自分を「お嬢様」と呼ぶ部下の無作法を咎める余裕は、玲子にはなかった。
彼女は険しい表情のまま、低く問い返す。
「どうした。何があった」
「こちらへ……」
部下に導かれ、二階の一室へと足を踏み入れる。
そこでは、ソファの上に一人の禿頭の老人が、物言わぬ塊となって横たわっていた。
「……これは……」
ソファには、まだ生々しい血が滲んでいる。
その男がすでに事切れていることは、一目で分かった。
「そなたたちがやったのか?」
「い、いえ! とんでもありません。
我々が踏み込んだ時には、すでにこの状態でした!」
玲子の顔が、苦渋に歪む。
「……やられたわね。
これは、厄介なことになった」
そこに横たわっていたのは――
他ならぬ、早乙女組組長・早乙女正晋の遺体だった。
玲子ほどの頭脳があれば、状況の把握に時間は要らなかった。
どうやら自分は――早乙女晋作という男の野望のために、都合のいい"生贄"に選ばれたのだ。
だが、その瞬間、玲子の脳裏を最悪の想定がよぎる。
彼女は弾かれたように顔を上げ、配下に向かって怒鳴りつけた。
「――今すぐ引くわよ! 全員、撤収!」
しかし、その号令よりも早く、外からけたたましいサイレンが鳴り響いた。
一台や二台ではない。
周囲を完全に封鎖せんばかりの、おびただしい数のパトカーだ。
「……ちっ。完全に嵌められたわね」
玲子は奥歯を強く噛み締めた。
死体という決定的な証拠を前に、現場を押さえられた以上、もはやどんな言い逃れも、筋の通った説明も意味を持たない。
すべてが、手遅れだった。
一方、極刀会側では、九条師範代を先頭に立てた猛攻が、黒楓会の防衛線を容易に食い破っていた。
ほとんど抵抗らしい抵抗もなく、彼らは倉庫の奥へと踏み込んでいく。
だが白川は、黒楓会側のあまりに不自然な退き際に、何らかの意図を感じ取っていた。
だからこそ、深追いは命じなかった。
倉庫の中央部まで辿り着いたときだった。
一人の白人の男が、椅子に縛り付けられたまま、力なく首を垂れている。
白川と九条は短く視線を交わし、足早に近づいた。
そこにいたのは、草薙警備会社の役員であり、スコートファミリー日本責任者――アレクセイ・チェコフ。
しかし――。
彼はすでに意識を失い、口元からは体液が垂れ流れていた。
――これは……。
白川は、即座に楓の意図を悟る。
――三河会に、すべての泥を被せるつもりだな。
倉庫の入り口から、石澤の腹心がチェコフに近づこうとした、その瞬間だった。
白川は九条へ、鋭い目配せを送る。
九条は即座にその意を汲み取った。
流れるような動作で、抜刀。
そして一閃――。
血が舞い、チェコフの首が床を転がった。
その光景に、石澤の腹心は言葉を失う。
転がった首が、紛れもなくチェコフ本人であることは、一目で分かった。
「……目的は達した。撤収するぞ」
白川が短く告げる。
「し、しかし!
会長の命令では、チェコフは生け捕りのはずでは……」
動揺する腹心をよそに、九条はとぼけた調子で言い放った。
「おっと、これは失礼。
老いぼれゆえ、つい手が滑って斬り捨ててしもうたわ」
首を撥ね飛ばした以上、いまさら何を言おうと、すべてが手遅れだった。




