117 山道
『こちらミハイル。全車に通達する。前方のトンネル内で一度停車しろ。後方から接近している車両は味方だ。発砲は厳禁だ、繰り返す――発砲するな』
無線から聞こえてきたのは、派遣部隊の小隊長の声だった。
「ラジャー!」
張りつめていた神経がほどけていくのが自分でも分かった。
すぐに後部へ指示を回し、二台のトラックはそのまま速度を緩め――
トンネルの中へと吸い込まれるように進んでいった。
トラックがトンネルへ入り、薄暗い非常灯だけが照らす中ほどまで進むと、緊急待避所に一台の車がすでに止まっていた。
そこから降りてきたのは、覆面の四人の男たち。
体格からしてロシア人ではない。動きも妙に静かで、傭兵とは別種の気配をまとっていた。
スコートファミリー側の一人がトラックから降り、慎重に距離を保ったままロシア語で声をかける。
「……お前たちが、ミハイルさんの言っていた友軍か?」
覆面の一人が、やや拙いロシア語で応じた。
「そうだ。これからは我々が前後を護衛する。
運転もこちらの人間が担当する。あなたは後へ移動してくれ」
その間にも、後方から車列が追いついてくる。
三台ほどのワンボックスカーが滑り込むように停車し、そこからも同じ黒装束の男たちが降りてきた。
スコートファミリーの傭兵たちは、なぜ運転まで交代させるのか疑問に思いながらも――
小隊長直々の指示とあれば従うしかない。
それに、こちらには三十人もの武装傭兵がいる。相手は二十名ほど。もしもの時には押し切れる、そう判断した。
傭兵が踵を返しトラック後部へ向かおうとした、その時だった。
「――ああ、もう一つ」
覆面が呼び止める。
「これからしばらく、空砲を撃つ。
驚くな。作戦の一環だ」
ロシア語を話した覆面の男――それはもちろん黒楓会、"影"の隊員だった。
黒楓会には語学に堪能な人材も多く、必要とあれば外国語での潜入任務も難なくこなす。
スコートファミリーの傭兵がトラック後部へ移動していくのを確認すると、
"影"の隊員たちは静かに周囲へ散開し、武器を手に取った。
次の瞬間。
カチリ。
引き金が絞られ、乾いた破裂音がトンネルにこだました。
ダダダダッ――!
パンッ、パンッ!
自動小銃の連射、拳銃の発砲音、散弾が空気を裂くような衝撃音……
それぞれが反響し、閉ざされた空間全体を揺らす。
突然の銃声の嵐に、トンネル外の山中では、寝ぐらに潜んでいた鳥や獣たちが一斉に飛び立ち、
闇の中でざわりと騒めきが走った。
一方、山道の展望台。
街灯もない漆黒の闇に、遠くトンネルから反響する銃声だけが乾いたリズムを刻んでいた。
その音を確認した二つの人影が、素早く携帯を取り出す。
「……報告します。黒楓会がスコートファミリーに攻撃を開始。現在、交戦を確認」
数秒の静寂。
『……了解。状況を継続監視しろ。――トンネルから車両が出たら、即時連絡を』
静かだが、容赦のない命令口調。
「はっ、承知しました!」
通信が切れると同時に、部下の背筋が自然と伸びた。
電話越しでも、相手の温度のない冷気が肌を刺すほどだった。
電話の向こう側では、三河会副会長・"戦鬼"石澤英樹と、"四柱"の一人・白川優樹が、二十名ほどの精鋭部隊を率い、現場へ向かって走っていた。
車内の暗がりで、白川は低くつぶやく。
「……しかし、会長の推理はどう思いますか?」
石澤英樹は腕を組んだまま、静かに口を開いた。
「信じがたいが……だが会長がそう言うなら、間違いねぇはずだ」
声に無駄な抑揚はなく、淡々としていながらも底に揺るぎない自信がある。
「……玄野楓。確かに厄介な相手だ。だがな――うちの会長が負けるなんて話、最初からあり得ねぇんだ」
わずかに瞳を細め、過去を思い返すように続ける。
「長年仕えてきて分かる。どんな強敵を前にしても、あの方が崩れるところを一度も見たことがねぇ。あの人が動く時は、もう勝ちが決まってんだ」
その声には誇りと確信が宿っていた。
白川は目を伏せる。
かつて玄野楓に敗れて以来、白川は誰よりも楓の実力を認めている。
だが――茨城に来てからの楓は、その"先の先"を読む三河会の策の前に、珍しく後手へ回り続けていた。
白川の胸に、ふっと重い影が差す。
――らしくないな……。大丈夫か、あいつ。
その思いは敬意に近い焦りであり、同時に、かすかな不安でもあった。
トンネルから抜けた車列は、ワンボックス二台が先導し、その後ろに二台の大型トラック、さらに背後をワンボックス二台が固める隊形で山道を進んでいた。
トラックの運転手はすでに覆面の男たちへと入れ替わっている。
およそ二十分ほど走り、市街地まであと三十分という地点に差しかかったそのとき――
前方には工事用のバリケードが敷かれ、照明車が眩しい光を投げかけていた。
数名の作業員姿の男たちが、車を誘導するように赤い誘導灯を振っている。
トラックの速度が落ち、車列全体が慎重に近づいていく。
――しかし。
その距離が十数メートルに縮まった瞬間、異変が起きた。
中央を走っていた一台のトラックが、突如として対向車線へ切り込み、エンジン音を唸らせながらバリケードへ向けて急加速した。
「こんな時間に山道で工事なんかあるわけねぇだろ、ボケッ!」
覆面のドライバーが怒鳴り、アクセルを踏み抜く。
その叫びが正しかったと証明するように――
"作業員"たちは、迫り来るトラックに驚いた顔を見せたのも一瞬だけ。
すぐさま身を翻し、訓練された動きで回避すると、
作業服の下から黒光りする銃器を引き抜いた。
そして──。
ダダダダダッ!!
山道の静寂を裂く銃声が、闇の中に響き渡る。
赤い誘導灯が、銃口の閃光で無惨に弾かれ、地面へ転がった。
工事などではない。
――これは待ち伏せだ、三河会の。
封鎖された道路の左右から、暗闇を裂くように影が飛び出した。
無数の人影が躍り出て、車隊へ向けて一斉に銃火を浴びせる。
しかし車列は、まるでこの奇襲を読んでいたかのように即座に動いた。
バリケードを突破したトラックはそのまま走り去らず、急ブレーキを踏み込んで停止すると――
荷台の後部が乱暴に開き、武装した白人傭兵たちが雪崩れ込むように飛び出した。
彼らは夜視スコープ付きの銃を素早く構え、山の闇に潜む伏兵へ向けて正確に射線を合わせる。
ダダダダダッ!
三河会の兵が次々と倒れ、道路脇に転がった。
さらに、後ろの車列と、道路中央の"作業員"へ向けて容赦なく弾丸を叩き込み、挟撃の形で激しい銃撃戦が展開される。
少し離れた高台から戦況を見下ろしながら、三河会副会長・石澤英樹は、わずかに眉をひそめた。
「……やはり、会長の言った通り、黒楓会、スコートファミリーと組みやがったか」
その横で、白川優樹も目を細めた。驚きはある。しかしそれ以上に――三河雅という男の読みの深さに、背筋が冷える。
出発前の作戦会議――。
三河雅は今回の任務を「極めて危険」と断言した。
理由を尋ねた石澤に、会長は淡々と言った。
「黒楓会とスコートファミリーが手を組み、我々を嵌める可能性がある」
その場にいた全員が、耳を疑った。
白川も、深井玲子でさえ、思わず顔を見合わせた。
黒楓会はスコートファミリーのビルを爆破し、ボスまで攫った。
そんな相手と"協力"など、あり得ない――
誰もがそう思ったが、口にして反論する者はいなかった。
三河雅は彼らの反応を見ても、何一つ説明を補わなかった。
説得する必要はない、とでも言うように。
戦鬼・石澤英樹は、双眼鏡をゆっくり下ろしながら低く言った。
「……撤退だ。これ以上やっても、無意味な犠牲が増えるだけだ」




