美心ちゃん汗拭いてね
「春香さ~ん、ジュース飲みたいっす」
仕事が始まって早々、美心が甘えた声を出した。
しかし春香はパソコンの画面から目を離さない。
「…………」
「春香さ~ん?」
「…………」
「ジュース飲みたいっす」
それでも春香は振り向かない。
すると――
スッ。
春香の手だけがポケットへ伸びた。
千円札を一枚取り出す。
「私、コーラ」
「え?」
美心が目を丸くする。
「買ってきて」
続いて咲希も便乗する。
「私はカルピスお願いします」
「二人とも自分で買いに行けばいいじゃないっすか!」
「美心ちゃん、お願い」
「私もお願い」
二人に見つめられ、美心はしばらく考え込んだ。
そして――
「仕方ないっすね! 買ってくるっす!」
元気よく千円札を受け取り、部屋を飛び出していった。
バタン。
ドアが閉まる。
静かになった仕事部屋で、春香と咲希は顔を見合わせた。
「……行ったね」
「行きましたね」
「計画通り」
「計画通りですね」
二人は小さく笑った。
今日は暑い。
しかも運の悪いことに、朝からエアコンが壊れている。
窓を開けても、生ぬるい風しか入ってこない。
「暑いなぁ……」
春香が団扇で顔を扇ぐ。
「今日は美心ちゃん、絶対ジュースを欲しがると思ったんだよね」
「だから千円札を用意していたんですね」
「そう。自分で買いに行くのは面倒だから」
「そこまで計算していたんですか……」
咲希が呆れたように笑う。
「ちなみに咲希ちゃんも共犯だからね」
「はい。もちろんです」
咲希は涼しい顔で答えた。
「じゃあ、美心ちゃんが帰ってくるまでに六話を読んじゃおうか」
「はい」
二人は原稿へ視線を落とした。
◇◇◇◇◇
夜。
孤児院の中は、いつもより静かだった。
夕方になっても、ココは帰ってこなかった。
クルミは何度も窓の外を見る。
玄関を見る。
そして、また窓を見る。
落ち着かない。
「……まだ帰ってこないね」
スズが声をかける。
「そのうち帰ってくるよ」
クルミは素っ気なく答えた。
「ココ、怒ってたから心配だよ」
「大丈夫」
「クルミちゃんは心配じゃないの?」
「……別に」
そう答えながらも、クルミは落ち着かない。
スズには分かっていた。
本当は心配で仕方がないのだ。
けれど、自分から「探しに行きたい」と言うのは、なんとなく悔しいのだろう。
やがて夕食の時間になった。
「みんな、ご飯にしましょう」
シスターがいつもと変わらない明るい声を出す。
しかし、食卓に集まった子供達の表情は暗かった。
「……ココ、帰ってくるよね?」
七歳のカインが不安そうに尋ねる。
「大丈夫よ。ココはきっと帰ってくるわ」
シスターは優しく答えた。
けれど、その笑顔にも心配が滲んでいる。
食卓には、ココの分の料理も用意されていた。
誰も、その料理に手をつけようとはしなかった。
「ココ、これ好きだったのにね」
チハルが小さく呟く。
「……うん」
スズは頷いた。
昼間は、あんなに元気だった。
笑って、騒いで、クルミと喧嘩して。
それなのに今は、ココがいない。
それだけで、食卓がこんなにも寂しく感じる。
クルミは黙ったまま、自分の皿を見つめていた。
「クルミちゃん……」
「……ごめん」
「え?」
「私のせいだと思う」
クルミが俯く。
「私があんな勝負なんてしなければ……」
「クルミちゃんのせいじゃないよ」
スズはすぐに答えた。
「ココも、きっとクルミちゃんに謝りたいと思ってるよ」
「……そうかな」
「うん」
スズは笑った。
「だって、ココだもん」
クルミの表情が少しだけ和らいだ。
しかし――
夕食が終わっても、ココは帰ってこなかった。
夜はどんどん深くなっていく。
子供達が一人、また一人と部屋へ戻っていく。
それでもクルミは玄関を気にしていた。
そして――
皆が寝静まった頃。
クルミは静かに立ち上がった。
そっと玄関へ向かう。
「クルミ」
「……!」
後ろから声がした。
振り返ると、スズが立っていた。
「起きてたの?」
「うん」
クルミは少し迷ってから口を開く。
「……ココを探しに行くの」
スズは頷いた。
「私も行く」
「ダメ」
「どうして?」
「危ないから」
「クルミだって危ないよ」
「私は一人で行く」
「じゃあ私も勝手について行く」
スズがニコッと笑う。
「…………」
クルミは困ったようにスズを見る。
そして、小さく息を吐いた。
「……分かった」
二人は音を立てないように孤児院を出た。
外へ出ると、夜の空気が肌に触れる。
昼間とは違い、辺りは真っ暗だった。
遠くから、魔物の鳴き声らしきものまで聞こえてくる。
スズは少し怖くなった。
それでも、クルミの隣を離れなかった。
「クルミ、どこを探すの?」
「畑」
「畑?」
「うん」
クルミは迷いなく歩いていく。
「ココは、ああ見えて寂しがり屋だから」
「……うん」
「本当に遠くまで行く勇気なんてないと思う」
その言葉には、ココのことをよく知っている姉のような優しさがあった。
二人は畑へ向かった。
月明かりに照らされた畑では、野菜の葉が風に揺れている。
「……ココ?」
スズが小さな声で呼ぶ。
「…………」
返事はない。
「いないのかな」
「もう少し探そう」
二人で畑の奥へ進む。
すると――
「……ひっく……」
小さな泣き声が聞こえた。
「今の……」
「ココ!」
二人が声のする方へ走る。
すると畑の隅に、小さな人影があった。
「……いた」
ココだった。
しゃがみ込み、トマトを抱えて泣いている。
スズは思わず胸を撫で下ろした。
無事だった。
それだけで力が抜けそうになる。
クルミも同じだった。
すぐにココの前まで走っていく。
「ココ!」
ココが顔を上げる。
「……クルミちゃん」
「心配したんだよ!」
クルミの声は怒っているように聞こえた。
けれど、その声は震えていた。
「……」
ココはプイッと顔を背ける。
「クルミちゃんなんて嫌い」
クルミの表情が曇る。
それでも、言い返さなかった。
「……ごめん」
「…………」
「無理やりゴーヤを食べさせようとして、ごめん」
「……」
「痛くして、ごめんね」
クルミは何度も謝った。
ココはまだそっぽを向いている。
そこでスズが口を開いた。
「ココ」
「何っすか……」
「ココが『嫌い』って言ったら、クルミちゃん悲しいよ」
「…………」
「クルミちゃんも、ココが帰ってこないからずっと心配してた」
ココが少しだけクルミを見る。
「……本当に?」
「本当だよ」
クルミが答える。
「ずっと玄関を見てた」
「…………」
「ご飯も、ココが帰ってくるまで食べたくなかった」
ココの目に、再び涙が浮かぶ。
「……お腹空いた」
「そこ!?」
スズが思わず声を上げる。
クルミも一瞬呆れた顔をした。
けれど――
「……帰ろう」
「うん」
クルミが手を差し出す。
ココは少し迷ったあと、その手を握った。
「クルミちゃん」
「何?」
「手、まだ痛いっす」
「帰ったら治療してあげる」
「ご飯も食べさせてほしいっす」
「自分で食べなよ」
「嫌っす」
「もう……」
クルミは呆れたように笑った。
スズも笑う。
三人で並んで歩く。
さっきまでの重苦しい空気が、少しずつ消えていく。
夜空には、たくさんの星が輝いていた。
スズは二人の手を見る。
クルミとココ。
二人とも、自分にとって大切な家族だ。
だから――
「二人とも無事で良かった」
スズは小さく呟いた。
「……うん」
「良かったっす!」
三人の声が、静かな夜道に響いた。
◇◇◇◇◇
「…………」
春香は原稿を読み終え、ゆっくりとペンを置いた。
「六話、ここまで」
咲希も原稿から顔を上げる。
「ココちゃん、無事で良かったですね」
「うん」
「クルミちゃんも、ちゃんと謝れて良かったです」
「喧嘩って、勝ち負けを決めても解決しないからね」
春香が原稿を閉じる。
「ちゃんと相手の気持ちを考えて謝ることが大事なんだよ」
「そうですね」
そのとき――
ガチャッ。
「ただいまっす……」
ドアが開いた。
二人が振り返る。
「おかえり、美心ちゃん」
「…………」
美心の顔は完全に疲れ切っていた。
髪は汗で張り付き、額から汗が流れている。
「美心ちゃん、凄い汗だね」
「外、暑すぎるっす……」
「ちゃんと汗拭いてからこっち来てね」
「乙女に対して酷いっす!」
「いや、ほんとに汗凄いから」
「私、頑張って買ってきたんすよ?」
「ありがとう」
春香が笑う。
「だから、ちゃんと汗を拭いてね」
「結局それっすか!」
美心は頬を膨らませながら、持っていた袋を机に置く。
「はい。コーラとカルピスっす」
「ありがとう」
春香がコーラを受け取る。
「咲希ちゃんもどうぞ」
「ありがとうございます」
咲希がカルピスを受け取る。
「……で、美心ちゃん」
「はいっす?」
「汗」
「まだ言うっすか!?」
三人の笑い声が仕事部屋に響いた。




