第五話:森の奥の「もふもふ」
ベルシュタイン公爵領の最北端。そこには、古来より人間が足を踏み入れることを禁じられた「魔の森」の境界線がある。
高く聳え立つ樹々は太陽の光を遮り、湿った土と濃密な魔力の匂いが鼻を突く。精霊茶の劇的な成功により、さらなる希少な「原種」の薬草を求めていた僕は、ガインを伴ってその深淵へと足を踏み入れていた。
「アルフレッド様、ここから先は……騎士団の護衛なしでは自殺行為です! 精霊たちも、ひどく怯えているようですし……」
ガインの耳が、不安げに小刻みに震えている。獣人特有の野生の勘が、森の奥に潜む「何か」に警鐘を鳴らしているのだ。
「大丈夫だよ、ガイン。精霊たちが怯えているんじゃない。……彼らは、『悲しんでいる』んだ」
僕の視界には、空中に漂う光の粒たちが、ある一点を指して激しく明滅しているのが見えていた。その方向に、何か強烈な「不協和音」が響いている。それは、この世界の調和を乱す、悍ましいまでの「拒絶」の響きだった。
生い茂るシダ植物をかき分け、巨大な古木の根元に辿り着いた瞬間、僕たちは息を呑んだ。
「……っ、これは……」
そこには、銀色に輝く美しい毛並みを持った、巨大な狼が横たわっていた。
伝説の魔獣——フェンリル。
神話では「世界を呑み込む者」と謳われ、その一吠えで天災を呼ぶとされる最強の種族だ。だが、その威厳ある姿は無惨にも傷ついていた。
脇腹には、赤黒い雷を放つ「忌まわしき魔導の杭」が深く突き刺さっている。そこから腐食のような闇が広がり、美しい銀の毛をどす黒く汚していた。
「キュゥ……、あぅ……」
漏れた鳴き声は、荒ぶる神のものではなく、ただの傷ついた子犬のように弱々しい。周囲の精霊たちは、その傷口から溢れ出す呪いに当てられ、助けたくても近づけずに右往左往して泣いているようだった。
「……人間の仕業だね。精霊の核を無理やり引き抜こうとする、禁忌の捕獲道具だ。おそらく、王都の欲深い収集家か、あるいは……」
僕は迷わず、その巨体へと歩み寄った。
「アルフレッド様、危険です! フェンリルは一噛みで城門すら砕くと言われて……!」
「ガイン、止まって。……この子は今、牙を剥く力すらないんだ。それに、僕には聞こえるよ。彼が『助けて』じゃなく、『独りにしないで』って泣いているのが」
僕は、フェンリルの巨大な鼻先に、そっと小さな掌を添えた。
瞬間、フェンリルの琥珀色の瞳が僕を捉える。そこには、激しい苦痛と、人間に対する深い絶望が——「利用されるだけの道具」として扱われた悲しみが宿っていた。
「……痛かったね。怖かったね。……でも、もう大丈夫。僕の庭は、とっても居心地がいいんだ。そこなら、誰も君を縛らないし、美味しいお茶も、ふかふかの寝床もあるよ」
僕は、自分の全魔力を解放した。
水晶には決して映らない、無色透明な、精霊にとっての「極上の泉」のような魔質。それを指先から、フェンリルの傷口へと注ぎ込む。
前世のコンサル術——「まずは相手の最大のボトルネック(苦痛)を取り除き、圧倒的な信頼関係を築く」。
「君を縛る汚い鎖(呪い)を、僕が全部食べてあげる。……だから、僕を信じて」
僕の魔力が呪いの杭に触れた瞬間、パキパキと音を立てて闇が霧散していく。
精霊たちが一斉に僕の魔力に同調し、合唱を始めた。森全体が、まるで一つの巨大な生命体のように祝福の光に包まれていく。
「……ぬ、温かい……?」
フェンリルの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
呪いの杭が、僕の魔力によって「無害な魔力素」へと還元され、大気に溶けて消える。それと同時に、フェンリルの傷口は見る間に塞がり、汚れていた銀の毛並みが、月の光を浴びた雪のように眩い輝きを取り戻していった。
浄化の光が収まると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
巨大だったはずの銀狼の姿が、光に包まれてどんどん収縮していく。
やがて光が消えた跡には——。
柴犬より一回り大きいくらいの、真っ白でふわふわな「毛玉」が、コロコロと転がっていた。
「……あぅ? ……わんっ!」
子狼の姿になったフェンリルが、不思議そうに自分の短い脚を眺めた後、僕を見上げ——。
タッタッタ、と短い足で駆け寄ってくると、僕の膝に思い切り飛び込んできた。
「わわっ、元気になったね。……よしよし、もう痛くないよ」
『きもちいい……、お花……、おにわ……、いく……! きみのそば、はなれない……!』
直接脳内に響く、幼い子供のような純粋な声。
どうやら、僕の魔力に中てられて、伝説の魔獣が完全に「完落ち」してしまったらしい。
子狼は僕の胸元に顔を埋め、シルクのような毛並みを擦り付けてくる。その「もふもふ」とした圧倒的な質量と温もりは、前世のどんな高級ストレス解消グッズよりも、僕の心を癒やしてくれた。
「……アルフレッド様。それ、伝説のフェンリルですよね? ひとたび怒れば国を滅ぼすと謳われた、あの……」
呆然と立ち尽くすガインを他所に、僕は子狼のお腹を優しく撫でた。
「ああ。でも、今は僕の大事な『広報担当』兼『癒やし担当』だね。……名前は、月の光みたいに綺麗だから『ルナ』にしよう。……ね、ルナ?」
『ルナァ! アル、だいすきっ!』
伝説の守護獣を「もふもふの相棒」として仲間に加え、僕の計画はいよいよ盤石なものとなった。
希少な薬草を護り、僕の庭を外敵から守る最強のガードマン。そして、これから向かう王都の社交界で、貴婦人たちの心を一瞬で奪い去る「究極の外交官」。
「よし、ガイン。最高の素材(薬草)と、最強の警備員が手に入った。……いよいよ、王都へ打って出る準備を始めようか」
僕はルナを抱き上げ、新緑の森を後にした。
僕を「無能」と呼んだ者たちが、この「もふもふ」の前にひれ伏す日は、もうすぐそこまで来ていた。




