第四話:一杯のお茶が変える世界
「……信じられん。昨夜まで死の淵を彷徨い、遺言さえ残していた娘が、今朝には粥を欲しがっているのだぞ」
ベルシュタイン領の中心部、石造りの重厚な領立診療所の廊下に、一人の老医師の震える声が響き渡った。
彼の手には、空になった小さな遮光瓶が握られている。その簡素なラベルには、幼い、しかしどこか理知的な筆致で『Bean & Staff:試供品』とだけ記されていた。
僕とガインは、診療所の影、薄暗い待合室の隅でその光景を静かに観察していた。
五歳の子供がこんな場所にいれば本来は邪魔者扱いされるはずだが、今の僕の胸元には、父上から預かった「公爵家代理人」を示す金色のバッジが、鈍い光を放っている。
「アルフレッド様、見てください。あんなに顔色の悪かった人たちが……。まるで魔法にかかったみたいです」
ガインが、信じられないものを見るような目で病室を見渡す。彼の犬のような耳が、驚きでピンと立っていた。
「魔法じゃないよ、ガイン。これは『環境の再構築』の結果だ」
僕は、手元の羊皮紙の帳簿に「治癒率:98.2%。副作用:軽微な多幸感と空腹感」と書き込んだ。前世の経営コンサルタントとして、データの収集と分析は呼吸と同じくらい欠かせない工程だ。
「彼らの病の根本原因は、土壌の汚染による『魔力欠乏症』だった。長年の過度な魔力抽出で、精霊たちが嫌がって去った土地では、人間は生きるための根源的なエネルギーを補給できない。……だから、精霊たちが『お礼』として純粋な魔力を詰め込んでくれたこのお茶は、彼らにとって干上がった大地に降る恵みの雨(点滴)になるんだよ」
病室からは、すすり泣くような感謝の声と、力強い笑い声が漏れ聞こえてくる。
一週間前まで、ここは絶望の溜まり場だった。流行病を治すための高価な王都製魔法薬を買える者は一握り。残りの領民は、ただ震えて死を待つしかなかったのだ。
だが、僕が提供した「精霊茶」は、わずか銅貨数枚分のコスト——つまり、僕が精霊たちを「接待」した手間賃だけで、それを上回る効果を発揮した。
「……さて。市場調査は完了だ。ガイン、次の段階へ移行するよ。王都の貴族たちに、この『奇跡』の対価をたっぷり払ってもらわなきゃいけないからね」
僕は診療所を後にした。
背後で、回復した領民たちが、僕の背中に向かって祈るように膝をついているのを感じる。
「無能の令息」という蔑称は、いつの間にか「精霊に愛された神童」という、信仰に近い響きに塗り替えられようとしていた。
執務室に戻ると、父・エドワード公爵が、報告書を手に沈黙していた。
窓から差し込む夕日が、彼の厳格な横顔を赤く染めている。
「……アルフレッド。診療所の回復者数は、私の想定を遥かに超えている。騎士団の魔導師たちでさえ、匙を投げた病だぞ」
「お父様。それは彼らが、精霊を『兵士』としてしか見ていなかったからです。僕は彼らを『投資家』として扱いました。居心地の良い庭を提供し、適切な魔力を配当する。そうすれば、彼らは自ずと最高の商品を利子として返してくれるのです」
父は書類を机に置くと、椅子の背にもたれかかった。
五歳の息子を、もはや愛息子としても、あるいは出来損ないとしても見ていない。対等な、あるいはそれ以上の「利を産む怪物」を見るような眼差しだ。
「……王都から、問い合わせが来ている。ベルシュタイン領で、死者をも蘇らせる『黄金の液体』が開発されたという噂が、すでに社交界を駆け巡っているようだ」
「いいですね。噂は最高のスパイスです」
僕は不敵に口角を上げた。
「ですが、お父様。この精霊茶をただ売るだけでは、すぐに模倣が出ます。精霊の好む環境を完全に再現できるのは僕だけですが、見た目だけを真似た粗悪品が市場を荒らすのは避けたい。……そこで、公認の『サロン』を作ります」
「サロンだと?」
「はい。王都にベルシュタイン公爵家直営のティーサロンを開くのです。そこでは精霊茶を振る舞うだけでなく、精霊たちが好む特別な香料や、僕が開発した『新作ジュース』も提供します。会員制にすれば、情報の統制も効きますし、何より——」
僕は一旦言葉を切り、父の目を真っ直ぐに見据えた。
「——王都の貴族たちの財布の紐は、彼らの『喉の渇き』よりも『優越感の渇き』によって緩むものですから」
父は、一瞬呆気にとられたように目を見開いたが、やがて、短く、しかし深く笑った。
「……フッ、くははは! 恐ろしい子供だ。……よかろう、サロンの設立資金は私が全額出資しよう。その代わり、王家への献上分は忘れるなよ」
「もちろんです。王家という最強の広告塔を逃すほど、僕は愚かではありません」
契約は成立した。
公爵家の後ろ盾、無限の資金、そして領民たちの絶大な支持。
あとは、この事業を盤石にするための「さらなる希少資源」を手に入れるだけだ。
「ガイン、準備をして。明日は領地北部の『魔の森』へ向かう」
「えっ、でもあそこは危険だと……」
「大丈夫。精霊たちが教えてくれたんだ。あそこに、僕たちを待っている『特別な子』がいるってね」
僕は、窓の外に広がる深い森を見つめた。
そこには、前世の図鑑にも載っていないような、神秘と可能性が眠っている。
精霊茶の香りが王都を席巻し、僕を「無能」と呼んだ者たちがその一杯を求めて列を作る日は、もうすぐそこまで来ていた。




