86.出撃
「...揃ったようだな。全軍、出撃する」
セリウスが静かに告げて、手のひらを前方へ送る。
頷いた第一師団長のハウゼンが、剣を振り上げて高らかに声を上げた。
「全軍、前進———!」
巨大な黒波のような軍勢が動き出す。
全ての軍靴が揃い、石畳みに重い足音を響かせた。
タウンハウスの正門から石造りのアーチを潜り、辺境伯軍が王城に向けて出陣する。ヴェルドマン領の紋章を胸に刻んだ鎧が、金属の擦れ合う音を重なり立てた。
この辺境伯軍は、戦慣れした第一から第四の辺境騎士による師団連隊を前衛部隊とし、後衛として比較的新規に加わった兵と支援系の魔法部隊を揃えている。
その理由は、彼ら後衛部隊の戦力差にあった。
歴戦の辺境軍に比べ、まだ戦績の浅い者を使い捨てるつもりは無い。
強敵をあらかじめ前衛で捌き、その取りこぼしを兵力は劣るものの数の多い後衛に駆逐させる算段だ。
残り見送るは、ジェンキンスとラウールが率いる家令達。
確かな実力と強い魔力を持つ彼らは、転移門を維持するファビアンとタウンハウスを守護する役目がある。
だが家令騎士長であるジェンキンスはこの案が決められた数刻前、いつになくセリウスへ反発していた。
「わたくしめのお役目は一つ。クラウス様の寵児であられる貴方様を、最後までお側でお護りする事です」
彼の目はかつてないほど焦りに満ちて、あろうことか主人であるセリウスの前に立ちはだかった。
「どうかこのジェンキンスをお供に。何卒、どうか」
明らかに家令としての立場を大きく超えて、罰せられることも厭わぬ覚悟。
彼がこのような振る舞いを見せたのは、長く共に過ごしたセリウスの目にも初めての事だった。
セリウスは驚きに目を見開き、目の前のジェンキンスの鈍色の瞳を見つめていた。
そしてしばらくの沈黙の後に、そっと彼の肩に手を置く。
セリウスは彼を見据え、静かに問いかけた。
「ジェンキンス。俺は今代の領主として、騎士としてまだ不足があるか」
彼の口調は穏やかで、優しいものだった。
ジェンキンスはその言葉にはっと息を呑む。
彼の言わんとすることが、まるで親を伺うように細められた視線が胸の奥へと深く刺さる。
...この方は、己の立場を心得ながら、こちらの家令としての矜持を試しておられるのだ。
ジェンキンスは小さく息を吐く。自らの態度を思い至り、ゆっくりと目を閉じて静かに答えた。
「...いいえ。貴方様こそ騎士たる騎士。我が辺境の主にございます」
幼い頃から見つめ続けた主人。
母の愛を知らず、若くして父を失い、ずっと親代わりに育ててきた、かつての主人のたった一人の忘れ形見。
...だが、彼はとうに“辺境伯”であったのだ。
もう孤独な子供でも、預けられた後継でもなく。
それを知りながら、身勝手に家令が引き止められようか。
「案ずるな。辺境の王になる夫をみすみす失わせはしない」
見守っていたステラが、ジェンキンスの空いた肩の残りをセリウスと同じく支える。
「“辺境の長”を“平原の長”が守るんだ。元宿敵として、心強いだろう?」
そう冗談混じりに言いながらも、彼女のエメラルドの瞳が優しく揺れた。
・・・
出陣する辺境伯を見送りながら、ジェンキンスは手を胸の前に強く握り込む。
「お戻りをお待ちしております、旦那様」
腰まで流れる黒髪が、まだ短く切り揃えられていたあの頃を思い出す。
崩壊を辿る王都に、主人の背中が遠く霞んだ。
————
生暖かい風が運ぶ、争いと鮮血の臭い。
魔物特有の饐えた悪臭が鼻をつく。
「...美しかった都が酷い有様だな」
セリウスの隣に並ぶステラが、王都を一望して低く呟いた。
たった数ヶ月前に二人で屋台を回ったあの活気ある都が、今は見る影もない。
そこは今や地獄の様相だ。
瓦礫が散乱し、降る灰と魔力淀みで翳った王都。
元は目を剥くほどに華やかで、人々に溢れ、覆うほどに家や店々がひしめき合っていた。
都を持たない遊牧民の前世では、縁のない景色。
それは抑圧された令嬢として生まれた今世でも、遠く眩しく映ったものだった。
その都がたやすく壊れる様は、憎き王の街と言えども胸が痛む。
ステラは小さく唇を噛んだ。
しなやかな革鎧に身を包んだ彼女は、豊かな髪を風に靡かせる。どこか寂しげな横顔に燃えるように舞い上がった赤髪が、軍隊を背後にひときわ鮮やかに翻った。
対して黒鉄の鎧を纏うセリウスがさらりと黒髪を背に送り、鋭い金の瞳で周囲を見やって眉をひそめた。
辺境育ちの彼にとって、この王都は華やかではあるものの、どうにも好みきれない都だと思っていた。
それは、かつての聖騎士の命を受けた事と、貴族で溢れる猥雑な街が気に入らないのだと深く気に留めずにいた。
だが、現在の惨状になって———ようやく根本の理由がわかってしまった。
「この都の作りは、まるで脅威への体制が出来ていない」
所狭しと競い合うように店々が並び、家と家が無理な整地で膨れ上がった欲深い街並み。細かな路地が多く、先が見えない。
王城へ続く主要な大通り以外はまるで必要ないとでも言わんばかりに、迷路のように入り組んでいた。
これでは避難経路が大通りにのみ限定されてしまう。逃げる人々の混乱をさらに極め、結果、多くの命を奪われるだろう。
常に魔物や隣国に侵され、対策を何重にも凝らした辺境とは大違いだ。
「王都は攻め込まれることに慣れない上に、こちらに兵が流れたおかげで手薄ですからね。内部から魔物が湧き出せば、ひとたまりもありません」
二人の後ろに続くルカーシュが、深刻な面持ちで言った。彼の銀髪に灰の空気か絡む。
小さく咳き込んだアストラル魔法公が、やれやれと呆れたようなため息をついた。
「力に溺れた歴代の王による慢心だ。何も驚く事はないよ」
タウンハウスの周囲はイズラール達先遣隊が一掃した為、あらかたの魔力澱みは処理されていた。
だが、今しがたルカーシュが告げた通り、王都中心部に近づくにつれて建物はひどく崩壊し、未だ逃げ残った人々が魔物に追われている。
あちこちで悲鳴や絶望の啜り泣きと、崩れゆく家屋の音が聞こえる。
あまりの惨状にセリウスがキリ、と奥歯を噛んだ。
自領民では無いといえ、護るべき民の逃げ惑う姿は騎士として耐え難い。
彼は速やかに前方を見据え、指示を飛ばす。
「第一、第二師団、前へ。大通りの魔物を排除し道を開く」
ステラが続けて声を張り上げ、剣を抜いた。
「民間人を見つけ次第、後方へ促せ!殲滅は後続部隊に任せて城への行軍を優先する!」
背後に控えた騎士達が一斉に剣を胸の前に構えた。
ルカーシュが彼ら前列の後ろに身を隠す。体力の劣る彼の役割はあくまで軍略だ。身を守る為、柔軟な水の魔力も温存しておく必要がある。
「一同隊列を崩さず、集団火力で魔物を散らして下さい!」
彼の指示が周囲に通り、軍勢が波立った。
騎士達は足並みを揃えたまま、次々に襲い来る魔物を慣れた動きで斬り伏せていく。
「魔術師隊諸君、辺境軍を援護せよ」
おもむろにアストラル魔法公が腕を前に出し、ローブをひらめかせた。
「はぁい魔法公サマ!」
「サクッと片付けちゃお!」
ディオスとクロイスがぴょんと跳ねて片手を上げれば、彼に率いられた魔術師達が同じく手を上げてそれぞれに魔法を前方へ放った。
にわかに激しい閃光が交錯する。
それを逃さずひらめく騎士達の剣によって、魔物達が瞬く間に殲滅されていく。
逃げ纏っていた人々は思わず立ち尽くし、圧倒的な戦力に呼吸を忘れた。
「見ろ、辺境伯軍だ!」
「我々を助けに来て下さった...!」
「ああ、ありがたいわ...!」
魔物から逃れた人々は、安堵でたまらずその場に膝をついてしまう。
だが安堵にはまだ早すぎる。
目の前は片付いても、澱みはまだ数え切れぬほどあるのだ。次なる魔物がまた湧き出すというのに。
かつての平原の民が彼らに重なる。
もう、魔物に民の命を奪われるのは見たくない。
「立ち止まるな!!」
ステラは彼らに向かって声を張り上げた。
「もはや王都は安全では無い!直ちに城下を離れろ!」
鋼を打つような声に、へたりこんでいた人々が息を吸い込んだ。
「後方へ走れ!我々の別働隊が誘導する!」
セリウスも魔物を斬り伏せながら、低く通る声で彼らを逃がす。
辺境伯夫妻へ降りかかる雨のように切れ目のない魔物の猛攻。しかし彼らはまるで遮るものが無いかのように、ただ前へと切り拓いていく。
雷光と焔を纏う、漆黒と真紅。
人智を超えた強軍を率い、王城へ進み往く二人の男女。
それはまさしく———
———“窮地に顕現した、一対の英雄”の姿を成していた。
救世主たる悠然とした足取りに、恐れを知らぬ勇猛な戦士の振る舞い。見つめる高揚に肌が粟立ち、人々は我を忘れて声を上げた。
「どうかご武運を!」
「必ずや悪しき王を滅して下され!」
「辺境伯様!我らが救世主よ!」
両手を握り合わせて祈る者。
縋るような目を向ける者。
天に手を掲げて仰ぎ見る者。
「英雄万歳!王国に光を!」
声は次第に重なり合い、気づけば大きな響きとなって王都の街路を満たしてゆく。
民衆の希望にうねる熱狂の中。
行軍する軍勢の見据えた先へ、城門が聳え立っていた。
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