87.因縁の魔物
いよいよ城の門前に差し掛かったその時。
...何かがおかしい。
セリウスは開かれた目の前の扉に、強烈な違和感を覚えた。
———なんだ、この妙な空気は。
逃げ延びたルイーズの報告では確かに、“内部から魔物が湧き出たことで城門は開け放たれていた”とあった。だからこそ彼女はその混乱に乗じて、城からの脱出が叶ったのだと言う。
おそらくその情報に嘘は無いのだろう。
だが、そうであればこの巨大な澱みは何だ。
門の全てを飲み込むようにして、大きく広がった異様な澱みは。
こんなものが妨げていれば、そこから常に魔物が湧き出し続け、城内の人々が逃げられるわけもない。ルイーズが逃れた後にこの澱みが現れたのならば、まだ人々は内部に取り残されていたはずだ。
だが、そうであるなら、彼らの死体はどこへ。
魔物が暴れたとするならば、何らかの痕跡があるはずだ。だというのにこの澱みの周りは、血の跡すら...何も見当たらない。
「......ッ」
疑問に思案する彼の隣で、ステラは巨大な澱みを見つめ、全身の毛を逆立てていた。
知っている。
この感覚は、覚えている。
「ステラ、この澱みは...」
おかしい、とセリウスが口を開きかけた途端、彼女が彼の言葉を遮るようにばっと手を上げた。
澱みを刺激するなと言わんばかりに、まるで目の前の恐ろしいものからこちらを守るような動き。
すると突然、澱みの深淵の内からごぼごぼと濁った泡が噴き出した。
「来るぞ!置き楯構え!!」
ステラの矢のような声に、前衛の騎士たちが重い置き楯を一斉に目の前に構える。
盾を縁取る鋼が石畳みを打って大きく響く。
沸騰するように激しさを増してボコボコと泡立つ澱みに、騎士たちが思わず身体を強張らせた。
突如、澱みの中央に現れる白い棒のような何か。
それはどこか間の抜けた光景だった。
「あれは...、...人の手...?」
ハウゼンが拍子抜けしたように呟く。
それはどう見ても、人間の腕だったのだ。
まるでこちらを招くように、一本の腕が突き出して手のひらを向けている。
彼が困惑の視線を向ければ、ステラの唇が震えて何かを呟いた。
「——あれが、来る」
その言葉をようやく聞き取った瞬間、ゴボゴボゴボッ!!と澱みが波打つ。同時に無数の巨大な手が澱みの内から飛び出すように現れた。
空までつんざくような幾重にもなる叫びの不協和音。
まるで人々の苦悶の叫びを歪に重ね合わせたような耐え難い轟音が、鼓膜の奥へ恐怖と嫌悪を注ぎ込む。
「こ、これは...いったい...何なのです...!?」
数多くの魔物と相対したが、こんな悍ましい魔物は知らない。
ルカーシュが蒼白になり、怯えた声を漏らす。
それはみるみるうちに大きく膨れ上がり、異様な形へと組み上がる。
突き出した無数の腕、歪に斜めに捲れた唇が花弁のように重なり、中には細かな人の歯をずらりと揃えた大きな口。
門を超えてさらに聳え立ち、青黒く浮き立った太い血管を全身に這わせ、ねじれた芋虫のように絶えず蠢く巨体。毛の無い肌はてらてらと粘液でぬめり、生々しく艶めいている。
ああ、やはり。
ステラは記憶に違わないそれを見て、奥歯を軋ませる。
やはり、こいつは紛れもなく———あの悪夢の再来ではないか...!!
「...我が氏族を喰らった、化け物め...!!!」
エメラルドの瞳が揺れて、かつてない憎悪と恐怖の色に染まる。
見間違える訳もない。己がまだ12の幼い頃に、平原の民を壊滅させたあの魔物だ。歴戦の戦士たちを次々に飲み込み、多くの民を引き裂いた災厄。
だが、あの魔物は魔術師に斃され、消えたはず。
それが、どうして今ここに...!!
ステラの全身が粟立ち、あの日の惨劇がまるで昨日の事の様に蘇る。
人が死ぬ。
人が死ぬ。
大切な全てが失われてしまう。
瞳孔が開く。指先が震える。制御できない恐怖が身体の中を埋め尽くしていく————
「...これは、遺灰と人柱で作った“特別な澱み”だよ。まさか、ここでまた出会うとはね」
アストラル魔法公が静かに呟いた。
その声は低く落とされ、昏い響きを纏って続ける。
「生成過程で人を生きたまま使用して出来るものでね。この澱みからは、人体を媒体にした魔物が産み出される。そして産まれた魔物は、人を好んで取り込む性質を持つのだよ」
「な...」
セリウスが目を見開き、騎士たちが息を呑む。
魔物がこちらに腕を伸ばし、魔法公がおもむろに手を前に翳した。光の結界が円形の屋根のように張り巡らされていく。
巨大な魔物が結界越しに見下ろす中、彼はまるで顔色を変えずに淡々と語った。
「“魔力は感情に呼応するもの”だと、訓練の過程で知っただろう?魔力に人の感情が混ざり合ったこれは、より大きな感情を求めて暴走し、一体化する事でさらに強い魔力を得る...。恐怖や、悲しみ、苦しみがその原動力だ」
「つまり、この魔物は...無数の人間であると...?」
ハウゼンが震えて問えば、ディオスとクロイスが「そういうコト」と肩をすくめた。
絶句する騎士達に、魔法公は冷え切った声で告げる。
「...二十年前。私は一度目の魔力澱みで平原の戦士を襲わせ、得た強力な人柱でこの魔物を生み出すように命じられた。そして役目を終えたこれを討伐すると見せかけて魔石に封印し、王家によって回収された...」
魔物の手がバン、バン、といくつも結界に張り付いて、こちらを覗き込んだ。
魔法公はその肉の間から覗く、濁った緑の瞳をじっと見つめ返す。
「この魔物の名は、素体となった三人の戦士の名を組み合わせて付けられた。...名を、“オルザナヴラド”と言う」
「...オルザナヴラド...」
今まで倒してきた魔物の主達は、神話の名がつけられていた。それとは異なる、継ぎ接ぎの禍々しい響き。セリウスは魔物を仰ぎ見て、思わずその名を繰り返した。
蠢く身体が、粘液を出して結界に押しつけられる。
魔法公の言葉が真実ならば、この無数の腕も、怖気立つような歯の並びも、全てが混ざり合った人間のものなのだ。
生きたまま澱みに飲み込まれ、仲間であるはずの人間を理性なく喰らい、感情を取り込み成長する魔物...。
なんと哀しく、惨く、悍ましい魔物だろうか。
すると黙って俯いていたステラが、地面を見つめたまま、両の手を固く握り込んだ。
かつて平原を襲った魔物を前に、その事実を知らされた彼女はどれほどの痛みを抱えているのか。
だがその表情は風に煽られた髪に遮られ、こちらから窺うことができない。
「...オル...ザナ、ヴラド......?」
ステラの声が酷く震えて、魔物の名を呟く。
彼女にとってそれは魔物の名とは思えない、懐かしい響きだった。
「...ああ、...オルガ...」
彼らの後を追って、おぼつかない足で歩いた。
何度も名を呼んで、小さな手を伸ばして追いかけた記憶。こちらに開かれた大きくて温かい腕。
「...ザル、ナフ...」
あの日、戦士達を焚き上げる炎の前で、母がその名を呼んで泣いていた。
そこに戻れなかった彼らの名を、何度も。
頭上で結界がビシ、ビシ、と軋む音を立て、魔物が覆い被さるようにこちらへ圧をかける。
ステラの握り込んだ拳の内から赤い血が滲んだ。それは一筋の雫となり、指を、その手に収めた剣を伝っていく。
「......ヴラド、兄様......!!!」
喉の奥から絞り出すような、失われた三人の兄の名前。
ついに鮮血は刃から地面へ滴り落ちる。
見上げた魔物は叫びを聞くと、呼応するように慟哭を空へ響かせた。
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しんどい展開ですが、作者はハピエン至上主義です。




