80.誘惑
「くそっ!!なぜだ、なぜだ、なぜだ!!セオドアめ、このわしを裏切りおって...!!」
国王が室内を足音荒く往復し、拳を空に振り下ろす。だがその場に集められた公爵達はもはや六人と数も少なく、20年前の陰謀に関わらなかった者達は速やかに英雄派へと鞍替えしていた。
「しかし、どうするのです。聖女は未だ加護の復活を得られず、魔法公を捕らえようにも魔術師全てが立ちはだかるのでは手も足も出ない...」
「城付きの騎士達ですら王家に反旗を翻し、辺境にわざわざ下る者まで出る始末...」
「今や彼奴等は英雄王や賢王などと呼ばれ始めているとか。城下では毎日のように抗議を訴える者が集い、門前にひしめいている!」
公爵達は頭を抱え、もうもうと煙草を部屋中に煙らせる。
「ええい、やかましい!そんな事は知っておる!」
彼らの並べた言葉へ苛立ちの限界に達した国王は、たまたま目の前にあった花瓶を壁に叩き付けた。
ガシャン!と大きな音を立てて破片と化す高級な磁器。活けられた花々が無惨に床へと散る。
「どうもこうも、全てはあの日の姫の振る舞いが不味かったのだ!たかが真実の愛だなどと馬鹿馬鹿しいものに民心を奪われ、女神の力を失ってしまった...!」
王は嘆きに顔を覆って、よろよろと脱力し椅子へ腰を下ろした。あの日さえ無かったことに出来たなら、やり直せればなどと、どうしようもない事ばかりが彼の頭の中を渦巻く。
すると黙り込んでいた公爵の内一人が、「真実の愛...」と呟いた。
「ああ忌々しい!その言葉はもう聞きとうないわ」
手で払うように言い退ける国王。
だが公爵はそれを受けてなお、さらに「そう、真実の愛が核なのだ!」と笑みを浮かべ立ち上がった。
「ならば壊してやればいい!単純じゃないか!辺境伯に女を当てがうのだよ!あのしおらしい妻一人しか抱いたことのない純真だ、より魅力的で強引な女に迫られれば容易く堕ちるだろう」
「ははは!色仕掛けとはまた古典的な」
「だが古典は効果があるからこそ、今となっても残るものと言える」
「ああ、高潔な騎士の皮を剥いでくれよう」
笑って煙草の煙を吐いた彼らに、俯いていた国王も脂ぎった面を上げる。
「なるほど...。真実の愛が崩壊すれば、民の理想は唾棄すべき穢れに変わる。まったく、悪くない策ではないか」
国王は意地の悪い笑みを満面に浮かべ、彼らに命じた。
「辺境伯にファム・ファタールを送り込め」
————
「その顔、今夜はクラブに誘われた日だったか」
寝室にて、サロン帰りのステラがくすりと笑いながらハットピンを髪から抜き取る。
先ほど彼女を馬車で迎えたセリウスは心底気乗りしないと言った表情でベッドへ腰掛け、妻が髪を解くのを見つめていた。
「ここで君と過ごしていた方が有意義だ」
ふわりと下ろされた赤い髪の毛先がぴょんと跳ねるのを見て、むず...と彼は身じろぎをする。
「んなわけあるか。王家側の情報を集めて来る方が大事に決まってるだろ」
軽く笑って乱れた髪に手櫛を通す仕草は、どこか無防備で艶めかしい。
白いうなじに夏の庭で微かに浮いた汗、張り付いた髪を絹で拭う妻。セリウスは思わず立ち上がり、その背に歩み寄ると柔らかな髪に触れた。
「むさ苦しい男どもより、この甘い髪の方がいい」
そう言いながら彼は背を包み込み、髪に顔を埋めて深く息を吸う。
「このままくだらないクラブなど放り出し、君と過ごしたい」
低く囁かれた彼の声と、するりと編み上げに這う長い指。ステラは慌てて小さく息を吸い込んだ。
「っ、こら!そういう雰囲気にして逃げようとすんな!」
「本心でそう思っているが」
「余計にタチが悪いっつーの!」
ばしばしと腰に回された彼の腕を叩いて抵抗すれば、セリウスは首元に顔を埋めたまま長くため息を吐く。
「それもこれも、君が無防備に髪を解いたのが悪い。苦行を前にしてこれ以上の誘惑があるか」
彼が本気で名残惜しそうな声を出すものだから、ステラは思わず呆れた声を出してしまう。
「そんなもんを誘惑に含めんなよ...。敵の色仕掛けにコロッと落ちそうだなお前は」
「落ちないが」
「人の服に手をかけながら言う奴に説得力があると思うか。いいから早くオッサンと煙草の煙に揉まれて来い!」
ステラはそう言うなりセリウスの脇腹に肘を打ち込み、「ぐっ」と呻いた彼の腕の中からするりと逃げ出した。
「...それが嫌だと言っているのに」
苦々しげな顔をした彼は、まるで医者にかかるのを嫌がる犬のよう。ステラはやれやれと腰に手を当てるとしばらく考えてから目を逸らし、小さく呟いた。
「...その、なんだ。戻ったら好きなだけ甘やかしてやるから」
「!」
すぐさま反応した彼にステラがかあっと赤くなる。
「いいから早く行け!」と焦って背中を押すと、セリウスは嬉しそうにいそいそと準備を始めるのだった。
————
その夜クラブハウスへと訪れたセリウスは、居合わせた人々の目には妙に機嫌が良く映った。
ヴェルドマン卿と言えば、奥方の話を振らない限りは仏頂面か単語に近い返答ばかりで、石像かと見紛う程の男だと言うのに。
「ヴェルドマン卿、チェスはいかがですか」
「お相手しましょう」
今夜の彼は微笑みを浮かべて遊戯の誘いに乗り、紳士達を大いに驚かせた。
そして英雄のチェスの腕たるやどんなものか、と勇んで臨んだ彼らへことごとく圧勝を決めてしまうのだった。
「騎士の嗜みとして覚えさせられたもので、大したものではありません」
などと謙遜するのが逆に煽りに聞こえる程には、彼の攻め手は恐ろしい強さを見せつける。
まるで辺境騎士の戦を思わせるような、相手を苛烈に追い込む圧倒的な殲滅。
その猛攻に紳士達は盛大に盛り上がり、あまり飲みたがらない彼へと酒が注がれた。
「勝利の一杯だ!それくらいは構わないだろう」
「多少であれば」
頷いていつになく杯を素直に受け取ったセリウス。満たされたのは強い度数の酒。彼の隣に付き添うファビアンが驚き、焦ってその肩を引き寄せた。
「ちょっとちょっとセリウス!なんか君やけに今日ノリノリじゃない、どうしたの!?」
小声で彼に問い詰めれば、セリウスは酒を口にして一言。
「戻れば妻の褒美がある」
真顔で言い退けた彼の言葉に、ファビアンは思わず呆れて頭を抱えた。
「あー...そういうこと...」
(奥方様め、渋るセリウスを焚きつけ過ぎたな...)
彼に生暖かい視線を向けられるのも気付かず、セリウスは飲み切ったグラスを机に置いて彼らの談笑に応じる。
「辺境伯殿は飲まれないものかと思っておりましたが」
「有事に動けねば困りますので、過度に強い酒は飲まぬようにしております」
「なるほど、流石は騎士らしい!我が領の騎士達にも聞かせてやりたい程です」
「ご謙遜を。ワイアード卿の騎士達は皆よく鍛えられておりました」
「いやはや、お恥ずかしいばかりで。先日の魔物討伐では世話になりましたなあ」
彼の堅さにすっかり慣れた紳士達は、酒を勧めながらも楽しげに会話を交わす。
セリウスを囲んで賑やかに笑う彼らの様子に、ファビアンは安堵のため息を吐いた。
(...ま、この様子なら僕の補佐もそろそろ必要ないかもね。お開きまでまだ時間もあるし、酔ったフリでうたた寝させてもらおうかな...)
転移門の使用には多くの魔力を消費する為、どうしても疲労は避けられない。セリウスの隣でうとうとと瞬きをした彼は、大きく欠伸をして背もたれに頭を預けた。
そして、彼が眠りに落ちたのを見届けていた者が一人。
「失礼、少し到着が遅れてしまったようで」
人々の間を縫って現れたのは、美しい青年貴族。
整った中性的な顔立ちに、きらめく金の髪とまるで春の花のような薄桃色の瞳。
「ああそうだ、新しく加わった仲間を紹介しなければ」
紳士達に促され、彼は手袋に包まれたしなやかな手をセリウスの前に差し出した。
「わたくしはルイ・ハルティエ。お初にお目にかかります、辺境伯殿」
セリウス、危うし—————⭐︎
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