70.始動
季節は春の只中。
平原には花々が咲き乱れ、空は澄み渡って晴れやかだ。春先の寒さを包んだ厚いウールの上着は仕舞われ、代わりに軽やかなシルクのブロケードで誂えたジャケットが揃えられる。
質の良い縫製と整ったシルエット、なめらかな黒地に銀の刺繍。同じく銀糸で揃えられた、騎士伯の身分を表す肩章から胸元へ編み連なる飾緒。
辺境伯領における伝統的な作りの礼装に袖を通したセリウスが、襟を整えて振り返った。
青みがかった黒髪が、さらりと背から流れて肩に落ちる。
「長らく使われていなかったタウンハウスをこうしてまた使う事になるとはな」
春から夏にかけて、社交の季節となれば貴族達はこぞって王都へ集い、それぞれの社交用住居に居を構える。通常、そこから彼らは夜会へ赴いたり、または人々を招いてサロンや茶会を開催するものだ。
しかし、社交より国境防衛を優先するヴェルドマン家がタウンハウスを使用するのは、当主が縁談を求める一時のみ。
聖騎士として召し抱えられていた一年間でさえ、セリウスは兵舎に寝泊まりし、時折辺境の確認のために領地へと戻る生活を送っていた。
「てことはクラウスの縁談以来、全く使われてないんだろ?随分埃っぽそうだなあ」
同じく社交用のドレスに着替えたステラが、キャプリーヌ帽をハットピンで留めながら答える。
艶やかに結い上げた豊かな赤髪、流れ落ちる優美な袖から覗くのは、繊細なレースに包まれた指先。
その姿は普段のシンプルなドレスから一転、大輪の花のように艶美で華やかである。
この日の為にジェンキンスに王都の流行を調べさせ、最新のドレスを夜会に足るだけ誂えたのだ。
思わず見惚れるセリウスが近づけば、ステラの背後でコルセットを閉めるダリアが自慢げに顔を出した。
「ご心配なく。ファビアン殿の“転移門”から、既に屋敷内は完璧に清掃を済ませております。美しい我が君が埃を被ろうなどと、このダリアが許しませんので」
にまりと微笑んだ彼女と眉を顰めたセリウスがバチリと睨み合うが、それももう慣れた事。
ステラは唇に紅を塗りながらダリアを振り返った。
「へえ、流石に気が利くな。にしても、やっぱりあの能力は破格的過ぎないか?子爵領を過ぎたらあれで王都までひとっ飛びだろ。馬車を用意するのが馬鹿馬鹿しくなるなあ」
あまりにも使い勝手の良すぎる能力。
今や彼の“転移門”は革命に欠かせぬものとなり、作戦に於いて要となりつつある。
「いい親友を持ったな、セリウス?」
んーぱっ、と唇を合わせれば、柔らかそうな唇が濡れたように赤く色付く。
淑女の衣を纏ったその姿はあまりに妖艶。
不意に胸を撃ち抜かれたセリウスは息を詰めた。
「っ、...奴が好き勝手に現れるのは気に食わんがな」
彼は悟られぬように余裕を繕うが、視線はステラに縫い止められたまま。
何を隠そう、ひと月ぶりに再び触れた妻はあまりにも甘美で、我を忘れる程に彼を狂わせたのだ。おかげで彼女の何気ない動作の一つ一つがより色気を増して、魅惑的に感じてしまう。
加えて新鮮な社交の装いに、扇情的な振る舞い。
ダリアを部屋から追い出し唇を奪いたい、などと脳裏に横切る煩悩を真顔で彼は押し留めた。
「なんだよその顔。似合わないか?」
「いや、...よく似合っている。危険な程には」
「ふうん?」
エメラルドの瞳に見上げられ、ますます滲む欲を誤魔化すように一つ咳払いをしたその瞬間。
コンコン、と見計らったように寝室の扉が叩かれる。
「旦那様。ファビアン様とルカーシュ様が来られましたよ」
穏やかな笑みを含んだジェンキンスの声。
言わん事はない...とセリウスが天井を仰ぐと同時に、扉の向こう側から「ねえねえ支度終わった〜?」と陽気な呼び声が響いた。
————
“じゃ、僕らはひと足先に子爵領に向かってるから、君たちは馬車でゆっくり来てくれるかい”
“話は通してありますから、あとはよしなに”
そう言ってまた転移門を潜っていったファビアンとルカーシュは、おそらく上手くオルネーと話を付けているだろう。
そもそも、この討伐はオルネー子爵側からルカーシュへ魔力澱みの解決策を求めた背景がある。
そこにあの口の回るファビアンと、頼った本人による口添え付きなら円滑に話は進むはずだ。
「なあ、昼飯に羊が出ると思うか?」
「おそらくな。君好みの串焼きは出ないと思うが」
舌舐めずりをしたステラは楽しげだが、主級の魔物澱みがあるのならば、荒事が苦手なオルネーは相当魔物に手を焼いている事だろう。
今まで出席した北方領主達の定例会において、オルネー子爵の印象は“穏やかな男”に尽きる。
他領の格上に挟み込まれる中で、彼らの諍いに苦労しつつもなんとか話を纏めようとする彼の事は正直なところ、嫌いではない。
今回は実際に手を貸すとはいえ、どこかあの純朴な羊顔のオルネーを騙すようだな、とセリウスは去年の会合ぶりの彼に思いを馳せた。
「ようこそ、ヴェルドマン卿。秋の定例会ぶりですねえ」
迎え入れたオルネー子爵は、やわい巻き毛に垂れた目元。小柄でぽっちゃりとした彼は己より十は年上であるが、こちらを見上げて人の良さそうな笑みを浮かべていた。
「ファルメス伯から主が出たと知らせを受けてな。王都に向かいがてらだ。手を貸そう」
「ああ、助かります。知っての通り牧羊一筋でやってきた身ですから、わたくしではなかなか...」
「把握はしている。気遣いは無用だ」
廊下を歩みながら簡潔に頷いたセリウスに、オルネー子爵はちら、と彼の背後の夫人を見やる。
「妻が気になるか」
「あっ、いや、そのう。お噂通りだなあと思いまして...」
話には聞いていたものの、蛮族の奥方を連れているのは珍しい。その上、王都であの聖女を退けた原因となった“聖騎士の愛妻”となれば、興味を惹かれてしまうものだ。
「噂とは?」
セリウスが素知らぬ顔をして聞けば、子爵は客室の扉を開けながらのんびりとした口調で答えた。
「お二人は血の因縁を超えて真実の愛を貫き、欲にまみれた悪の聖女を暴いたと。王都に縁無い田舎者のわたくしですから、どこまで事実なのかなあと思っておりました」
「相変わらずお前は正直過ぎるな、オルネー」
思わず小さく吹き出したセリウスが口元を軽く抑える。まったく、貴族とはいえこやつが子爵止まりなのは、駆け引き知らずの野暮さにある。
「でも事実だもんねえ!辺境伯殿は奥方様にドロッドロな執着を向けて溺愛中♡って親友の僕が保証するよ〜!」
そこには、すっかりソファにくつろいだファビアンが満面の笑みで待ち受けていた。
「黙れファビアン」
赤くなって一喝したセリウスに、見上げるオルネー子爵はぱちくりと小粒の目を瞬かせる。すると、ファビアンの隣にかけていたルカーシュが穏やかに微笑んだ。
「意外に早いお着きでしたね。魔物の情報は纏まっていますよ」
机の上には広げられた地図と、陣形を組まれた小さな駒の数々。そしてその側には一つ目の巨人らしき精巧な絵姿。
「だーってホントだもーん!僕がちょっとからかっただけで奥方様を取られるって必死に牙向いて脅してさあ〜!」
「やかましい。今すぐ黙らんと斬るぞ」
「やだ〜!助けてオルネーく〜ん!僕には愛する妻と可愛い愛犬がいるんだよ〜!?」
「えーっと、ヴェルドマン卿、落ち着いて」
わいわいと賑やかな彼らの背後。
机の上を目にしたステラは満足げに微笑み、セリウスの腕に指を絡めた。
「貴方ったら、子供みたいにはしゃがないの」
耳をくすぐるのは、妖艶な淑女の囁き。
...そうだった。
ここしばらくですっかり忘れかけていた。
この妻は奔放な素顔から淑やかな貴婦人へと瞬時に切り替える、二面性を持った女であることを。
「さっそく始めましょうか、旦那様?」
革命は既に始動している。
胸元に腕を押し当てられて硬直した夫を見上げ、ステラは悪戯っぽく片目を閉じた。




