これから その五
キタガミさんは僕にこう言った。
お前はお前として生きていけばいい。誰の言うことも聞かなくていい。
その言葉は今も僕の胸の中で燻り続けている。まだ僕が僕として生きるのは、この世界では難しい。でも揺るぎない事実として、そもそも僕は僕でしかない。
どうして僕として生きるのは、こんなに難しいのだろう。
「……ところで伊東さんは、僕がキタガミさんに嘆願書を書いたこと、嫌じゃなかったんですか?」
「嫌とは?」
「だって……伊東さんは、元はと言えばキタガミさんを追っていたはずじゃないですか」
伊東さんにとってキタガミさんはこの上ないほどの息子の仇のはずだ。それなのに取り計らって嘆願書を渡し、その影響まで調べてくれた。
「ああ」と伊東さんは得心したように頷いた。
「そういえばそうでしたね。なんだか、忘れていたような気がします」
「忘れていたって……」
「不思議なものです。私にとって優のことは切り離せない大切な過去です。しかしあなたとの関係も、大切な今として残っている」
伊東さんの表情は優しかった。僕はなぜか、父のことを思い出した。
「まだ納得できないことも、どうすべきか分からないこともたくさんあります。でも無理に答えを出す必要はないのかもしれない。今は少し、そう思えるんですよ」
「……そうですね」
僕一人の嘆願書がどれくらいの影響をもたらすのか、結局のところは結果が出てみるまで分からない。怖くはある。でも、分からないことに怯えるのは、無駄だ。
「さて、話すべきことは話しましたね。積もる話もあるところですが、お互いに忙しいことですし今日は解散しましょう」
「何か用事があるんですか?」
「……ええ。私はまだ、やらないといけないことがありますから。世間の関心が冷めないうちに、書いておきたいんです。親であることについて。今私は、クローン問題を告発した記者として世間から話題を集めています。そんな今だからこそ、自分の中に燻り続けていた優への後悔について、ちゃんと答えを出しておきたいんです。区切りをつけるつもりはありません。今からずっと背負い続けます。でも、背負うために、一度答えが必要なんです。私だけの答えが。……あなたたちの出来事を私情のために使うなって、怒られちゃいますかね」
「そんなことありません。僕たちだけの出来事を、そうじゃなくしたのは僕たちです」
「そうですね。……そうかもしれません。でも、大多数の人にとっては他人事なんですよね。それが不思議です」
「そうですね」
僕はそう言って笑った。
広げようとしてみて初めて気づいたことなのだが、僕の世界は僕より外にはどうやったって広がってくれないものらしい。他の人だってそうだ。伊東さんやキタガミさん、実さん、母さん、父さん、そしてノリだって。彼らの世界も、僕は本当の意味で共有することはできない。
でもその一部が、確かに交錯している。
繋がりや自我なんてものは、そんな多くの交錯した点のうちのほんの一部なのかもしれない。
ただひとつ言えることは、それらは確かに存在しているということだ。




