実と文昭 その三
やり残したこと。それは、タツくんとノリくんに関する研究データをまとめることだった。具体的には、体調を崩した際にノリくんに投与する薬や、異常が見られたときのためのマニュアル、万が一、タツくんに眠る凶暴な遺伝子が暴走したときの沈静化の方法や、各方への根回しのやり方などだ。
まとめるべきことはあまりにも多く、既存のマニュアルなども当然なかったため、作業はかなり難航した。私も手伝ったけれど、私にできることはやはり、そう多くなかった。
文昭さんは時折、胸に手を当て、苦しそうにするようになった。少し歩いただけで息切れを起こすようになり、目の焦点が合わずふらふらと歩くことも多かった。
私は心配し、休むように言ったけれど、文昭さんは断固として聞き入れなかった。そこには強い決意を感じられた。
そんなある日のことだった。いつもは私が先に来て、研究の準備や資料の整理などをしてから文昭さんを迎えるのだが、その日は文昭さんのほうが先に来ていた。
資料室の真ん中で、膝を折り蹲っていた。駆け寄ろうとしたが、囈言のような、呻くような声が聞こえて、思わず立ち止まった。
「死ねない……まだ……」
それは私の脳の奥底まで届くような、あまりにも切実な声だった。
「まだ……死ねない。僕は……ノリを……外で暮らせるようにしてやらないと……タツと……ノリが……それぞれで……独立した、人間として……法の目を掻い潜りながら……ああ、いっそ……僕が法を変えられれば……僕にそれだけの力と……時間があれば……」
文昭さんは、体調が悪くて蹲っているのではなかった。己に言い聞かせているのだ。もう満身創痍な身体を、今日も動かすために。きっと私が気づかなかっただけで、文昭さんは何度も何度も、儀式的にその言葉を繰り返していたに違いない。確かめたわけではないが、きっとそうだ、という確信があった。文昭さんの言葉には、何度も何度も同じことを言ったような、擦り減った重みがあったからだ。
私はしばらくその場に立ち尽くし、文昭さんの言葉を噛み締めていた。私はあの日、文昭さんの研究を手伝うと言った。文昭さんを、愛したから。
しかしそれは、文昭さんのすべてを、文昭さんが亡くなったあとも背負い続けるという、あまりにも重い運命の始まりでもあった。
だけど私は、後悔していない。それだけの恋を、あの人にした。
文昭さんが噛み締め、誓い、祈り続けたものを、私が守る。
たとえそれが、法に反していても。タツくんやノリくんのためには、結局、ならなかったとしても。
それが私の使命で、生きる意味なのだから。




