喪失
キタガミさんがポケットから取り出したのは武器などではなく、ふたつに折られた封筒だった。
僕は拍子抜けして、口をぽかんと開けたままキタガミさんを見る。
「安心しろ。……お前に危害なんか加えるわけねえだろ。そんなことをしたら、組から消されるのは俺のほうだ」
キタガミさんはそれすらお見通しだったようで、僕は顔がかあっと赤くなるのを感じた。それからまた、己に眠る『残虐な遺伝子』の脈動を感じたような気がした。
「俺はもうお前のところには来ない。だからこいつを渡しておく」
「……これは?」
「文昭の遺書だ。いつか必要になると思って、ずっと上着のポケットに入れっぱなしだった」
遺書……。キタガミさんが預かっていたものだ。内容はすでに、キタガミさんから聞いて知っている。研究所の場所もここに記されていた。
「すべて目を通してみるといい。それからどうするかは、お前の自由だ」
キタガミさんはそう言って立ち上がる。僕は咄嗟に、「行くんですか?」と声をかけてしまった。
「そりゃ、そうだろ」
キタガミさんはそう言って笑ったが、その笑みにはどこか悲しみの色が混ざっているように見えた。キタガミさんは普段から表情に出す人ではないから、気のせいかもしれない。でも、確かにそんな気がしたのだ。
僕は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。そんな思いに囚われる。
「じゃあな」
キタガミさんは軽く手を上げると、家を出て行ってしまった。その間、一度も振り返ることはなかった。
僕はしばらく、誰もいなくなった玄関を見ていた。走馬灯のように、頭の中を様々な記憶が駆け巡っていく。
注射器で血を抜かれるのを極端に怖がり、キタガミさんに手を焼かせた僕。ノリはどうだったっけ。覚えていない。
クリスマスや誕生日など、ちょっとしたお祝い事のときにはプレゼントを買ってきてくれた。お金には困っていなかったから、欲しいものはある程度手に入ったけれど、誰かから物を貰うという経験はほとんどなかったから、特別な感じがして嬉しかった。
母が死んでいるのを見つけ、連絡したらすぐに来てくれた。冷静に状況を分析し、とるべき行動を示してくれた。
隠し事も多かったし、無愛想だったけれど、僕たちに危害を加えたことは一度もなかった。
頼れる人を失った心細さから、記憶を美化しているのかもしれない。都合のいいところだけ見ているのかもしれない。
それでも僕は、今すぐ泣き出したいような強い衝動に駆られた。それは、父を喪ったときよりも強い痛みだった。




