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故に  作者: シャムロック
2/4

故に駆ける

「……あと二時間」


教室の時計を見上げる。


五時間目。数学。


黒板には数字と記号が所狭しと並んでいる。


分からない。


いや、正確には途中までは分かる。途中から分からない。


どこだ。


どこで私は道を踏み外した。


数学というのは恐ろしい。たった一行見失っただけで、知らない世界に連れていかれる。


……まあ、いいか。


いや、よくない。


受験生だぞ、私。


ノートに視線を戻す。


うん。


やっぱり分からん。


仕方ないので窓の外を見る。


青空。


雲が少し。


校庭の木が、ゆっくりと揺れている。


今日は風が弱そうだ。


昨日は向かい風が強かった。


最後の直線、もう少し押せた気がするんだけどなぁ。


今日はどうだろう。


昨日より速く走れるかな。


「鈴鹿さん」


「……はい」


「じゃあ、この問題の答えは?」


先生が黒板を指す。


……おや。


今、どこをやってる?


「……分かりません」


「途中まではできているみたいだけど?」


「途中で迷子になりました」


教室に小さな笑いが起きる。


先生も少し笑った。


「じゃあ、迷子になったところから一緒にやりましょうか」


「……はい」


助かった。


ありがとうございます、先生。


ちなみに私の頭の中では、現在進行形で千五百メートル走が開催されています。


こちらはなかなか調子がいい。


数学は遭難してるけど。


*


私の名前は、鈴鹿己咲。


すずか、みさく。


十五歳。中学三年生。


趣味は走ること。


そう言うと、たまに不思議そうな顔をされる。


まあ、理由は分かる。


私には両脚がない。


正確には、左右とも太ももの途中から先がない。


生まれつき、そういう身体だ。


だから、歩いたことはないし、自分の足で走ったこともない。


普段の移動には車いすを使う。


学校でも、家でも、買い物でも。


ずっとそうしてきた。


不便なことはある。


段差は面倒だし、長い坂道はもっと面倒だ。


雨の日は車輪が滑りやすいし、荷物が多いと腕が疲れる。


あと、パンク。


あれは本当に嫌い。


何が悲しくて、移動するだけでタイヤの心配をしなきゃいけないんだ。


……まあ、そんなわけで。


車いすは私にとって、いつもの乗り物である。


ただし。


家には、もう一台。


ちょっと変わった車いすがある。


細長い車体に、車輪が三つ。


速く走るためだけに作られた、競技用の車いす。


私は、こいつが大好きなのだ。


*


「己咲、今日も練習?」


六時間目が終わった。


隣の席の紗季が、鞄をまとめながら話しかけてくる。


「うん」


「ほんと、よく飽きないねぇ」


「飽きないよ?」


「毎日走ってるじゃん」


「毎日じゃないよ」


「ほぼ毎日じゃん」


「……まあね」


紗季は笑った。


「今度また大会出るんでしょ?」


「来月!」


「何メートル?」


「千五百!」


「うわ、長っ」


「そう?」


「私なら途中で帰る」


「それ失格じゃん」


「だから走らないんだって」


なるほど。


それはそれで賢いのかもしれない。


いや、走ろうよ。


楽しいよ?


「そういやさ、消しゴム貸して」


「また?」


「今度こそ返すから!」


「前のも返して」


「……あ」


おい。


現在、私の消しゴムは二個ほど紗季の管理下にある。


そろそろ返還交渉が必要だと思う。


「じゃ、また明日ね」


「うん。また明日!」


鞄を膝の上に置き、車輪を押す。


さあ、帰ろう。


今日は練習がある。


何を走るんだったかな。


千五百だったはず。


昨日、カーブで少し膨らんだんだよね。


あそこ、何とかしたい。


それと、何か食べたい。


お腹すいたな。


おにぎりあるかな。


「おーい、足なしー!」


……あー。


出た。


廊下の向こうに、男子が二人。


いつもの二人だ。


「今日も車いすでお帰りですかー?」


そうですよー。


今日も元気に車いすですよー。


「お前さぁ、体育楽でいいよな!」


楽かどうかは種目によるんだけどなぁ。


腕立て伏せとか普通にきついし。


「足ないんだから走れねぇもんな!」


……。


走れるけど。


というか、結構走ってるけど。


言ってやろうか。


……いや。


面倒くさい。


何で走れるのか。


どうやって走るのか。


本当に走れるのか。


その説明をここで始めるの?


嫌だよ。


私、早く帰りたいんだけど。


「おい、無視すんなよ!」


聞こえてるよ。


耳はあるんだから。


「何か言えよ!」


何を?


何を言ってほしいんだ、君たちは。


正解があるなら教えてくれ。


言わんけど。


横を通り抜けようとした。


そのとき、一人が私の車いすの前に足を出した。


慌てて車輪を止める。


……おい。


それは危ないだろ。


「……どいて」


「は?」


「通れない」


「こわっ。怒ってるし」


そりゃ怒るわ。


今のは危なかったぞ。


「冗談じゃん」


冗談なら何でもいいと思うなよ。


口には出さなかった。


相手は笑いながら足を引っ込める。


ようやく通れる。


……本当にもう。


「ちょっと、今の危なくない?」


後ろから声がした。


紗季だ。


「冗談だって」


「冗談でも危ないでしょ」


「別に転んでねぇじゃん」


「転んでからじゃ遅いでしょ」


男子たちは、何かぶつぶつ言いながら立ち去っていった。


紗季が私の隣へ来る。


「大丈夫?」


「……うん」


「先生に言った方がいいよ、あれ」


「そうだね」


「一緒に行く?」


……。


早く帰りたい。


ものすごく帰りたい。


でも、また足を出されるのも嫌だ。


あれは本当に危ない。


「……お願い」


「おっけー」


二人で職員室へ向かった。


先生は話を聞いてくれて、相手にも確認すると言ってくれた。


これで何もなくなるなら、それが一番いい。


……あー。


時間がかかった。


紗季と昇降口で別れる。


「じゃ、練習頑張ってね!」


「うん!」


「明日、消しゴム返すわ!」


「絶対ね!」


さて。


帰ろう。


今度こそ。


*


「ただいまー!」


「おう、おかえり」


台所から父ちゃんの声がした。


今日は早番だったらしい。


「父ちゃん!」


「なんじゃ」


「お腹すいた!」


「知っとる。おにぎりあるぞ」


「やった!」


素晴らしい。


今日の予想は的中した。


数学では迷子になったが、おにぎりの予測には成功したのである。


「ほれ」


皿の上に、おにぎりが二つ。


「具は?」


「梅干し」


「えー、鮭がよかった」


「文句言うなら自分で作れ」


「梅干し大好き!」


「現金な奴め」


いただきます。


……おいしい。


梅干しも悪くない。


というか、普通に好き。


鮭の方がちょっと好きなだけだ。


「で、今日は何時から練習じゃ?」


「四時半!」


「まだ時間あるな。宿題は?」


「……」


「己咲?」


「……帰ってから」


「昨日もそう言うとらんかったか?」


「昨日は昨日!」


「便利な言葉じゃのう」


父ちゃんは呆れたように笑った。


我が家は、父ちゃんと私の二人暮らしだ。


ご飯を作るのは父ちゃんが多い。


洗濯は私もする。


掃除もする。


でも料理はあんまり得意じゃない。


いや、できなくはないんだよ?


ただ、父ちゃんの方がおいしく作れるというだけで。


適材適所というやつである。


「そういや、学校はどうじゃった?」


「……んー」


おにぎりをかじる。


「数学が分からんかった」


「そりゃ勉強せにゃいけんなぁ」


「……うん」


「ほかには?」


「……あの子たち」


父ちゃんの手が止まる。


「また何か言われたんか?」


「いつもの」


「そうか」


「あと、車いすの前に足出された」


「……足を?」


「うん。でも止まったから大丈夫」


「止まれたからよかったけど、それは危ないぞ」


「……うん」


「先生には話したんか?」


「紗季と一緒に行った」


「そうか。なら父ちゃんからも話しとく」


「……お願い」


「おう」


しばらく、二人とも黙った。


私はおにぎりを食べた。


父ちゃんは皿を洗っていた。


水の音がする。


「……嫌じゃったろ」


父ちゃんが言った。


「……うん」


「そっか」


「……うん」


嫌なものは嫌だ。


何を言われても平気、なんてことはない。


できれば明日から何も言ってこないでほしい。


ほんとに。


でも。


「……あ、父ちゃん」


「ん?」


「今日、昨日より速く走れるかな?」


「知らんがな」


「えー」


「走ってみんと分からんじゃろ」


……。


確かに。


正論である。


「じゃあ、走ってくる!」


「まだ食べ終わっとらんじゃろ!」


「……はーい」


父ちゃんがため息をつく。


でも、少し笑っていた。


*


私が初めて競技用車いすを見たのは、小学校に入ったばかりの頃だった。


ある日、父ちゃんがスマホを持ってきた。


「己咲、ちょっとこれ見てみ」


「……なに?」


「すごいぞ、これ」


画面に映っていたのは、変な形の車いすだった。


細長い車体。


大きな後輪。


前には、小さな車輪が一つ。


……何これ。


車いす?


「これな、競技用なんじゃと」


「……ほへぇー」


画面の中で、何人もの人が走っていた。


車輪を押す。


ぐん、と前へ進む。


また押す。


もっと進む。


どんどん速くなる。


……。


「……はや」


「な。すごいじゃろ」


「……うん」


こんなに速く走れるんだ。


車いすって。


普段の私の車いすとは、全然違う。


何だろう。


ちょっと面白そう。


「乗ってみたいか?」


父ちゃんが聞いた。


もう一度、画面を見る。


速い。


すごく速い。


「……乗れるの?」


「さぁ?」


「……え?」


「調べてみんと分からん。でも、体験できるところがあるらしいぞ」


「……ほんと?」


「おう」


少し考える。


もう一度、画面を見る。


「……乗ってみたい」


「よし。じゃあ、聞いてみるか!」


父ちゃんは楽しそうに笑った。


*


初めて競技用車いすに乗った日は、今でもよく覚えている。


まず、姿勢が変だった。


普段の車いすと全然違う。


身体を前に倒して、低い位置に収まる。


足を置く場所も、座るところも、いつもとは違う。


……本当にこれで走れるの?


「じゃあ、まずはゆっくり動かしてみようか」


知らないおじさんが言った。


今のコーチである。


あの頃は、ちょっと怖かった。


声が大きいし。


ずっとニコニコしてるし。


知らない大人って、どうしてあんなに話しかけてくるんだろう。


「まずはこのリングを押してごらん」


「……うん」


グローブを着けた手で、車輪のリングを押す。


少し進んだ。


「そうそう。もう一回」


もう一度。


進む。


「いいね。今度は少し強く」


もう一度。


今度は少し強めに。


すうっと前へ進んだ。


「……お?」


あれ。


軽い。


思ったより、ずっと軽い。


「そうそう、いい感じ」


もう一回。


強く押す。


車体が加速する。


「……おお?」


何これ。


速い。


もう一回。


ぐん、と進む。


……えっ。


すごい。


手を止めても、まだ進んでる。


風が当たる。


景色が流れる。


「……!」


わ。


わわ。


何これ!


速い!


もう一回!


もっと!


車輪を押す。


ぐんぐん進む。


さっきまで遠くにあったものが、どんどん近づいてくる。


風が頬に当たる。


耳の横を通り抜ける。


……すごい!


楽しい!


「はい、そこまでー!」


コーチの声がした。


……え。


もう?


ゆっくりと速度を落とす。


車体が止まった。


「どうだった?」


「……」


「ちょっと難しかったかな?」


顔を上げる。


「……もう一回!」


「ん?」


「もう一回、乗りたい!」


コーチは目を丸くした。


それから、大きな声で笑った。


「ははは! いいよ!」


「ほんと!?」


「もちろん!」


「やった!」


少し離れたところで、父ちゃんが笑っていた。


「気に入ったみたいじゃのう!」


「うん!」


私は大きくうなずいた。


もっと乗りたい。


もっと押したい。


もっと速く走りたい。


あのとき初めて知った。


風って、こんなに気持ちいいんだ。


速く走るって、こんなに楽しいんだ。


*


それから、私は競技用車いすに夢中になった。


最初は百メートル。


次は二百メートル。


それから四百メートル。


とにかく速く走る。


押す。


押す。


押す!


単純だ。


でも、難しい。


手の動かし方。


身体の使い方。


車輪を押すタイミング。


少し違うだけで、進み方が変わる。


最初の大会では、思いっきり負けた。


悔しかった。


ものすごく悔しかった。


自分では速く走れたつもりだったのに、隣の選手はもっと速かった。


何で?


どうやったら、あんなに速くなるの?


……知りたい。


私もやりたい。


練習した。


また走った。


少しだけ速くなった。


嬉しかった。


それから千五百メートルにも挑戦した。


これがまた難しい。


最初から全力で走ると、最後まで持たない。


速く走る競技なのに、速く走りすぎると駄目なのだ。


何それ。


意味分からん。


……でも、面白い。


もっと長い距離にも挑戦した。


マラソンにも出た。


長い。


とても長い。


当たり前だけど。


走っても走っても、まだ先がある。


坂道もある。


向かい風もある。


途中で何度も思った。


まだ?


まだあるの?


もう十分走ったと思うんだけど?


……ある。


ずっとある。


でも、下り坂は最高だ。


風が流れる。


景色が流れる。


どんどん前へ進む。


あれは、もう。


たまらん。


気がつけば、全部好きになっていた。


短距離も。


中距離も。


長距離も。


全部違う。


全部面白い。


飽きる暇なんて、ないのである。


*


「お、己咲!」


練習場に着くと、コーチが手を上げた。


「こんにちは!」


「今日も元気だねぇ」


「うん!」


「学校はどうだった?」


「数学が分からんかった!」


「ははは! それは元気に報告することじゃないな!」


「えへへ」


「勉強も頑張りなさいよ」


「……はーい」


嫌なことを言う。


ここは練習場なのに。


数学から逃げ切ったと思ったのに。


「さて、昨日の練習は覚えてる?」


「うん!」


「最後のカーブ、少し膨らんでたね」


「……うん」


「あそこで慌てて修正したから、押すリズムも崩れてた」


「分かってる」


「今日はそこを意識してみようか」


「はーい!」


「あと、最初から飛ばしすぎないこと」


「……はい」


「今、ちょっと目をそらしたね?」


「……気のせい」


「ほんとかなぁ」


コーチが笑う。


私も笑う。


実は、ちょっと心当たりがある。


だって、速く走るの楽しいんだもん。


ついつい押してしまうんだもん。


でも、今日は千五百。


最初から飛ばしすぎると、後で苦しくなる。


分かってる。


分かってるんだけどなぁ。


競技用車いすに乗り移る。


姿勢を整える。


身体を固定する。


グローブを着ける。


ヘルメットをかぶり、あご紐を締める。


いつもの準備。


もう何年も繰り返してきた動作だ。


でも、適当にはしない。


ちゃんと走るための、大事な準備だから。


車輪を軽く押す。


すうっと進む。


……。


ふふ。


これこれ。


「じゃあ、まずはウォーミングアップから!」


「はーい!」


*


トラックをゆっくりと回る。


車輪を押す。


一度。


二度。


三度。


身体が少しずつ温まっていく。


今日は腕が軽い。


呼吸もいい。


風も弱い。


……いい。


実にいい。


今日は、絶対いい日だ。


少し強く押す。


車体が加速する。


風が頬を撫でる。


……ふふ。


気持ちいい。


もうちょっと。


あと少しだけ。


「己咲ー! まだウォーミングアップだよー!」


……あ。


やってしまった。


いけない、いけない。


落ち着け、私。


今から本番なんだから。


*


休憩を挟んで、計測を始める。


スタート位置に着く。


コーチが時計を構えた。


「準備いい?」


「うん!」


「じゃあ、いくよ」


車輪に手を添える。


目の前には、いつものトラック。


何度も走ったコース。


でも、昨日とは違う。


風も。


身体も。


気分も。


同じようで、同じ日はない。


「位置について!」


前を見る。


「よーい!」


息を整える。


「はい!」


押す!


もう一度。


さらに。


車体が前へ進む。


速度が上がる。


風が頬を撫でる。


……いい!


最初のカーブ。


進む先を見る。


慌てずに。


昨日みたいに膨らまないように。


……よし。


直線。


押す。


押す。


押す。


速い!


ああ、気持ちいい!


もっと!


もっと速く!


……いや、待て。


待て待て待て。


最初から飛ばしすぎ。


千五百。


千五百だぞ、私。


落ち着け。


少しだけペースを整える。


一周目。


コーチがタイムを読み上げる。


……ちょっと速い。


ほら、やっぱり。


でも、いい感じ。


このままいけるんじゃない?


二周目。


呼吸が少し荒くなる。


腕も重くなってきた。


まだ大丈夫。


まだいける。


カーブに入る。


……あ。


少し外へ膨らんだ。


慌てて進路を修正する。


車輪を押すタイミングがずれる。


一瞬、速度が落ちた。


……しまった。


今のはよくない。


くそぅ。


次こそ。


三周目。


きつい。


かなりきつい。


いや、知ってたけど。


千五百って、何でこんなに長いんだろう。


さっきまで楽しかったじゃん。


いや、今も楽しいけど。


腕が。


腕が重い!


「己咲ー! 力みすぎー!」


コーチの声が飛ぶ。


……分かってる!


分かってるんだけど!


一度、肩の力を抜く。


呼吸を整える。


押す。


押す。


……よし。


少し戻った。


最後の一周。


残りの距離を考える。


もう少し。


まだいける。


昨日より速いだろうか。


分からん。


でも、最後まで走りきりたい。


最後のカーブ。


今度こそ。


進む先を見る。


少し早めに準備して。


慌てずに。


視線を先へ。


リズムを崩さず。


……よし!


さっきより、いい!


カーブを抜ける。


目の前に直線が伸びる。


あとは押すだけ!


押す!


押す!


押す!!


「はい、ゴール!」


ラインを通過する。


ゆっくりと速度を落とす。


肩で息をする。


腕が重い。


汗が頬を伝う。


……。


きっつい。


めちゃくちゃきっつい。


もう嫌。


今日はもう何もしたくない。


……。


いや、嘘。


もうちょっと走りたい。


「お疲れー!」


コーチが近づいてくる。


「どうだった?」


「……はぁ……はぁ……」


「いいタイムだったよ」


「……ほんと?」


「うん。自己ベストには届かなかったけど、昨日よりは速い」


「やった!」


「でも、二周目のカーブは惜しかったね」


「……うん」


「途中で慌てたでしょ」


「……うん」


「最後はよかったよ。ちゃんと先を見て、余計な修正が減ってた」


「ほんと!?」


「本当」


……やっぱり!


あそこ、よかったんだ!


何となく、うまくいった気がした。


「ただ、最初のペースは速すぎたね」


「……はい」


「そこは次の課題だな」


「……うん」


なるほど。


最初のペース。


それからカーブ。


やることが増えた。


いや、減ってないじゃん。


でも。


「……ねえ、コーチ」


「ん?」


「もう一本、走っていい?」


コーチが時計を見た。


それから私を見る。


「千五百は今日はおしまい」


「えー」


「えー、じゃない。もう十分走ったでしょ」


「……むぅ」


「でも、休憩したあとに短い距離でカーブの確認だけしようか」


「……ほんと!?」


「ただし、飛ばしすぎないこと」


「うん!」


「本当に?」


「……たぶん」


「そこは『はい』って言ってほしかったなぁ」


コーチが笑った。


私も笑った。


*


休憩のあと。


もう一度、トラックへ出た。


今度はタイムを追いかけない。


カーブの練習。


視線。


進路。


車輪を押すリズム。


一つずつ意識する。


……よし。


ゆっくり入る。


慌てない。


先を見る。


車体が曲がっていく。


修正しすぎない。


押す。


押す。


カーブを抜ける。


……あ。


今の。


いいかも。


もう一度。


同じように。


進む先を見て。


押す。


押す。


……。


できた!


「コーチ!」


「んー?」


「今の! 今のよかった!」


「うん、よかったね!」


「でしょ!?」


「その感覚、忘れないようにね」


「うん!」


やった。


できた。


昨日はできなかった。


さっきも失敗した。


でも、今はできた。


……ふふ。


あはは。


楽しい!


「もう一回!」


「次で最後ねー!」


「はーい!」


押す。


押す。


もう一回。


今の感じ。


今の感じ!


……よし!


「どう!?」


「いいよー!」


「やったー!」


思わず笑ってしまう。


何これ。


楽しい。


やっぱり楽しい!


*


練習が終わったあと、コーチの隣で水を飲む。


「いやぁ、己咲は本当に走るのが好きだねぇ」


「うん!」


「疲れてるくせに、もう一本って言うし」


「だって走りたいんだもん」


「休むのも練習なんだけどね」


「……それは分かってる」


「分かってるならよし」


コーチが笑う。


私も笑う。


「それにしても、短距離も長距離も、よく飽きないね」


「だって違うもん」


「違う?」


「うん。短いのは、ばーって走るのが楽しいし」


「うんうん」


「長いのは、ずーっと走れるし」


「なるほど」


「でも、マラソンの坂道は嫌い」


「ははは!」


「登りは嫌い。下りは好き」


「正直だなぁ」


「うん!」


「じゃあ、何でマラソンも走るの?」


……。


何で?


何でだろう。


登り坂は嫌い。


向かい風も嫌い。


疲れるし。


長いし。


お腹すくし。


でも。


下り坂は気持ちいい。


知らない景色も見られる。


最後まで走りきると嬉しい。


次はもう少し速く走ってみたくなる。


……。


「……楽しいから?」


「ははは! 結局そこか!」


「うん!」


「そっか」


コーチは笑った。


「じゃあ、これからも楽しく走ろうな」


「うん!」


「ただし、無茶はしないこと」


「はーい!」


「あと、勉強も」


「……」


「おーい、己咲?」


……。


コーチ。


それは今、言わなくてもいいんじゃないかなぁ。


*


帰り道。


夕日が道路を照らしている。


今日も疲れた。


腕が重い。


明日はきっと筋肉痛だ。


あー。


やだなぁ。


でも、最後のカーブはよかった。


あの感じ。


何となく分かってきた気がする。


次は、もっと上手くできるかな。


いや、その前にペース配分だ。


前半で飛ばしすぎないようにしないと。


……両方?


両方だな。


うん。


やることいっぱい。


信号で止まる。


向こう側では、小学生たちが走り回っていた。


追いかけっこだろうか。


「待てー!」


「やだー!」


楽しそう。


一人が転びそうになって、慌てて体勢を立て直す。


その隙に、もう一人が追い抜いていった。


……あ。


今の、うまい。


追いつくかな。


……追いついた!


おお。


やるじゃん。


知らない子どもたちの追いかけっこを、しばらく眺める。


ふふ。


楽しそうだなぁ。


……私も今日、楽しかったけど。


ふと、学校でのことを思い出す。


足なし。


走れねぇだろ。


……。


嫌な言葉だ。


本当に。


何度言われても、好きにはなれない。


明日もまた何か言われるのかな。


面倒くさいなぁ。


できれば、やめてほしい。


……でも。


それはそれ。


明日は明日。


今日は今日。


信号が青になる。


車輪を押す。


ゆっくりと横断歩道を渡る。


風が頬を撫でた。


……。


ああ。


走りたい。


今すぐ競技用車いすに乗りたい。


もう一回、あのカーブを走りたい。


いや、まずは休まなきゃ。


明日は休養日だってコーチが言ってた。


……何でだよ。


走りたいのに。


いや、分かってる。


休むのも練習。


そういうことだ。


仕方ない。


じゃあ、明後日!


明後日は何を走ろう。


短距離?


千五百?


長めに走るのもいいな。


……うーん。


迷う。


どれも楽しそうだ。


想像すると、口元が緩む。


ああ、早く走りたい。


もっと速く。


もっと遠くまで。


次はどこまで行けるだろう。


どんな景色が見えるだろう。


考えるだけで、わくわくする。


……ふふ。


仕方ないじゃん。


だって、楽しいんだもん。


故に私は駆ける。

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