故に空は遠く
話を考えるのは難しいですね。
『さあ、いよいよ本日の最終レース! 残すところ、あと二名となりました!』
『まず登場するのは、競技歴わずか一年! 恐れを知らぬ大胆なライン取りと、圧倒的な速度で頭角を現した若き新鋭!』
『保井清麿! その荒々しい飛行からついた二つ名は、荒鷹!』
歓声が上がる。
『そして、荒鷹の師匠にあたるのがこの男!』
『競技歴十年! 数多の大会を制し、洗練された美しい飛行で観客を魅了し続ける歴戦の王者!』
『清水有間! その名も、魅鷹!』
『若き新鋭が師匠を超えるのか! それとも王者が貫禄を見せるのか!』
『師弟対決、いよいよ開幕です!』
*
操縦桿を握る。
右へ、少し。
左へ戻し、ゆっくりと引く。
手首がわずかに震えた。
「……ふむ」
こんなにも重たいものだっただろうか。
昔は何も考えずにできていた動作だった。指先のわずかな力加減で、機体は思うままに動いてくれた。
今は、自分の腕一本動かすのにも苦労する。
それでも、動くようになっただけ上等だろう。
もう一度、操縦桿を握り直す。
机の上に固定された、小さな操縦装置。
その先に翼はなく、視界に広がるのも青空ではなく、見慣れた部屋の壁だった。
窓の外を眺める。
雲が一つ、ゆっくりと流れていた。
五年。
随分と長い時間が経ったものだ。
それでも、目を閉じれば思い出せる。
風を切る音。
エンジンの振動。
そして、あの日の歓声が。
*
「師匠! 今日こそ勝ちますからね!」
格納庫に響く声。
振り返らずとも、誰が来たのか分かった。
「そうかい」
「もっと何かないんですか!」
「そうだね。頑張りたまえ」
「くっそぉ……!」
保井清麿。
二十三歳。
飛行競技の世界に飛び込んで、まだ一年。それでも、既に優勝候補の一角として名が挙がるほどの腕前だった。
速い。
とにかく、速い。
まだまだ無駄は多く、操縦も荒削りだが、その欠点を補って余りある速度と大胆さがある。
普通なら避けるような軌道にも、躊躇なく機体を滑り込ませる。
危なっかしい男だ。
もっとも、それで結果を出しているのだから、何とも言えないのだが。
「きよまろ」
「はい?」
「今日の三番ゲート、どう抜けるつもりだい?」
「直線で入って、一気に旋回します」
「その先が曲がれないんじゃないかな」
「曲がってみせますよ!」
「そうかい」
清麿は、どこか不満げな顔をした。
「師匠って、いつもそうですよね」
「そうかな?」
「そうですよ。もうちょっとこう、熱くなってくれてもいいじゃないですか」
「十分熱いつもりなんだけどねぇ」
「絶対嘘だ!」
思わず笑ってしまった。
随分と元気な男だ。
その勢いが、少し羨ましくもある。
「まあ、怪我には気をつけるんだよ」
「分かってますって」
彼は飛行服の襟元を直すと、格納庫の外へ目を向けた。
「……師匠」
「うん?」
「今日は本気で飛んでくださいね」
振り返った清麿の顔は、いつになく真剣だった。
「もちろんだとも」
そう答えると、彼は満足そうに笑った。
「じゃ、行ってきます!」
「いってらっしゃい、きよまろ」
「……せいまですって」
いつもの訂正を残して、彼は機体へ向かっていった。
どうやら、まだ諦めきってはいないらしい。
*
『荒鷹、スタートしました!』
『第一ゲート通過! 速い! 実に速い!』
モニターに映る機体が、パイロンの間を駆け抜けていく。
いい飛びだ。
相変わらず、荒っぽい。
だが、以前よりも随分と上達している。
旋回へ入るタイミング。
加速の仕方。
機体の傾き。
まだ改善できるところは多いが、それを差し引いても、見事なものだった。
『第三ゲート! 荒鷹、内側へ切り込んだ!』
「……おや」
思わず声が出た。
機体が大きく傾く。
次の瞬間、ほとんど減速することなくゲートを抜けていった。
「通したか」
僕なら選ばない軌道だった。
あれほどの速度では、次の旋回に余裕がなくなる。
けれど、彼は曲がった。
多少姿勢を崩しながらも、確かに曲がりきったのだ。
「……なるほどねぇ」
面白い。
実に、面白い。
『最終ゲート通過! フィニッシュ!』
『出ました! 今大会最速タイム!』
会場が沸いた。
表示された数字を眺める。
なるほど。
随分と速くなったものだ。
「さて」
僕は立ち上がった。
「僕も行こうかね」
*
操縦桿を握る。
エンジンの振動が、身体を伝ってくる。
十年。
随分と長く、この機械に触れてきた。
初めの頃は、何も分からなかった。
どうすれば速く飛べるのか。
どうすれば綺麗に曲がれるのか。
機体が何を嫌がり、何を求めているのか。
一つずつ覚えた。
何度も失敗した。
何度も繰り返した。
そうして、いつしか考えなくてもできるようになった。
操縦桿を引けば、機首が上がる。
倒せば、機体が傾く。
次のゲートへ向かうための、ほんの僅かな間。
そこに無駄な動きはいらない。
『魅鷹、スタート!』
機体が加速する。
第一ゲート。
第二ゲート。
少し傾け、引き起こし、そのまま次へ。
風が流れる。
機体は素直に応えてくれた。
いい調子だ。
第三ゲートが見えてくる。
清麿が強引に抜けた場所だった。
僕は少し外側へ膨らんだ。
十分な間を取り、滑らかに旋回する。
『第三ゲート通過! 荒鷹とは対照的な、美しいライン取りです!』
次のゲートへ。
速度を保ち、機首を向ける。
これが僕の飛び方だった。
十年かけて作り上げた、僕だけの飛び方。
『最終ゲート!』
『魅鷹、フィニッシュ!』
計器に表示された数字を見る。
「……あら」
負けた。
ほんの僅か。
それでも、確かに届かなかった。
『なんと! 魅鷹、荒鷹のタイムを超えられず!』
『優勝は荒鷹! 若き新鋭が、ついに師匠を破りました!』
機体を水平に戻す。
悪くない飛行だった。
大きなミスもない。
無駄な操作も、ほとんどなかった。
むしろ、上出来と言っていい。
それでも負けた。
「……いやぁ」
思わず笑ってしまった。
「速くなったもんだ」
大した弟子を持ってしまったものだ。
*
「師匠!」
機体を降りたところで、清麿が駆け寄ってきた。
「勝ちました!」
「見ていたよ」
「どうでした!?」
「実に速かったね」
「でしょう!」
満面の笑みだった。
よほど嬉しかったらしい。
「でも、師匠の三番ゲート、やっぱり綺麗でしたね」
「君のは少々強引だったからねぇ」
「でも俺の方が速かったですよ!」
「そうだね」
「……悔しくないんですか?」
少し考える。
「悔しいとも」
そう答えると、彼は驚いた顔をした。
「君に負けるとは思わなかったからね」
「へへっ」
「次は負けないよ」
「望むところです!」
差し出された手を握る。
随分と力強い手になったものだ。
まだまだ教えることは多いと思っていた。
けれど、この男はいつの間にか、自分の飛び方を見つけ始めていたらしい。
それは少し寂しくもあり、何より嬉しいことだった。
「さて、そろそろ準備しないとね」
「エキシビションですか?」
「そうだよ」
「楽しみにしてます!」
「そうかい」
今日の大トリ。
格納庫の奥では、双発のジェット機が出番を待っている。
何度も乗り、訓練を重ねた機体だった。
いつものレース機とは勝手が違う。
けれど、こちらはこちらで面白い。
「師匠!」
振り返る。
「俺、ちゃんと見てますから!」
「それは困ったねぇ」
「え?」
「格好悪いところは見せられないじゃないか」
清麿が笑った。
僕も笑った。
*
『さあ皆様! 本日の全競技が終了いたしました!』
『しかし! まだ終わりではありません!』
『本日の最後を飾る、スペシャルエキシビション!』
『競技歴十年! 数々の名勝負を繰り広げ、その飛行技術で観客を魅了し続ける男!』
『魅鷹、清水有間選手による展示飛行です!』
エンジンが唸る。
計器を確認する。
異常なし。
風も悪くない。
実にいい天気だ。
「さて」
スロットルを押し込む。
機体が加速する。
滑走路が後方へ流れ、やがて地面が離れていく。
高度を取り、緩やかに反転。
そのままロールへ移る。
機体を水平に戻す。
操縦桿は軽い。
いい感触だ。
いつものレースとは違う。
今は誰かと速さを競っているわけではない。
ただ、翔ぶ。
その姿を見せる。
僕が十年かけて磨いてきたものは、何も速さだけではないのだから。
『見事なロール! さすが魅鷹! 機体の姿勢が全く乱れません!』
歓声が聞こえる。
機首を上げる。
速度を高度に変え、頂点で姿勢を返す。
降下。
再び機首を起こし、会場の外周へ。
競技用のパイロンが、眼下に並んでいる。
次は、あの列に沿った低空航過。
最後に上昇して、大きく会場を周回する。
何度も確認した演目だった。
進入角を合わせる。
速度を調整する。
一つ目。
二つ目。
パイロンが視界の端を流れていく。
ふと、清麿の飛行を思い出した。
第三ゲート。
あの、少し無茶な軌道。
僕なら選ばない飛び方だった。
それでも彼は通した。
僕より、速く。
「……ふむ」
今度は、僕の番だ。
速さでは負けた。
だが、まだ見せていないものがある。
機体をわずかに内側へ寄せる。
ほんの少し。
次の旋回にも、まだ余裕はある。
この機体の癖も、よく知っている。
通せる。
そう判断した。
操縦桿を倒す。
いつもと同じように。
身体に染みついた、何千回目かの操作だった。
次の瞬間。
乾いた衝撃が走った。
「……ん?」
視界の端で、白い布が弾けた。
裂けたパイロンの一部が、機体の左側へ舞い上がる。
直後、鈍い音。
エンジンの唸りが乱れた。
警報が鳴る。
機体が震えた。
「……ああ」
計器を見る。
左エンジン。
推力が落ちている。
吸い込んだか。
機体を水平に戻そうとする。
左右の推力差を抑え、姿勢を整える。
操縦桿を引く。
反応はある。
まだ制御は効く。
ただ。
「……少し、低いねぇ」
速度が落ちている。
機体が沈む。
滑走路は見える。
だが、遠い。
思った以上に、遠い。
機首を向ける。
足りるか。
もう少し。
操縦桿を引く。
機体が応える。
まだ。
もう少し。
「……参ったな」
最後まで操縦桿は離さなかった。
それだけは、覚えている。
*
『……魅鷹選手、機体に異常が発生した模様です』
『高度が下がっています。これは……』
『……!』
一瞬、言葉が途切れた。
会場に、鈍い音が響く。
先ほどまでの歓声が、消えた。
『……ただいま、状況を確認しております』
遠くでサイレンが鳴り始める。
『救助隊が現場へ向かっています』
『繰り返します。現在、救助隊が……』
その声も、やがて途切れた。
*
白い天井だった。
見慣れない天井だった。
何度目に目を覚ましても、やはり白い天井だった。
「……ふむ」
どうやら病院らしい。
随分と長く眠っていたそうだ。
身体を動かそうとする。
動かない。
もう一度。
やはり、動かない。
妙なものだ。
動かしているつもりなのに、動いている感覚すらない。
医師の説明によれば、脊髄を酷く傷つけているらしい。
命が助かったのは幸運だったそうだ。
そうかもしれない。
少なくとも、こうして空を見ることはできている。
窓の向こうには、小さな雲が浮かんでいた。
「先生」
「はい」
「僕は、また飛べますかね」
医師は少し黙った。
それから、ゆっくりと言った。
「……まずは、身体を動かせるようにしていきましょう」
「そうですか」
なるほど。
どうやら、随分と長い道のりになるらしい。
*
「……師匠」
清麿が訪ねてきたのは、それからしばらくしてのことだった。
「やあ、きよまろ」
随分と疲れた顔をしている。
以前はあれほど騒がしかったというのに、今では別人のように静かだった。
「身体、どうですか」
「まあ、見ての通りだよ」
「……」
「なかなか言うことを聞いてくれなくてねぇ」
笑ってみる。
彼は笑わなかった。
しばらくの間、時計の音だけが聞こえていた。
「……師匠」
「うん?」
「俺、勝ったんですよね」
「そうだね」
「初めて、師匠に」
「見事だったよ」
彼は俯いた。
「……なのに」
言葉が途切れる。
僕は続きを待った。
「……師匠の方が、ずっと上手いのに」
小さな声だった。
「そうかな」
「そうですよ」
顔を上げる。
「俺、まだ師匠みたいに飛べないんですよ」
「そうかい」
「それなのに……」
彼は再び口を閉じた。
窓の外へ目を向ける。
今日も空は青い。
「きよまろ」
「……はい」
「三番ゲート、見事だったね」
「……」
「僕には、あの飛び方はできないよ」
清麿は何も言わなかった。
「次はどう抜けるのか、楽しみにしているんだけどねぇ」
「……師匠」
「うん?」
「……馬鹿ですよ、ほんと」
そうかもしれない。
僕は少し笑った。
彼は、最後まで笑わなかった。
*
事故調査を終えた機体が、格納庫の隅に置かれていた。
歪んだ機首。
裂けた外板。
取り外された翼。
かつて滑らかな曲線を描いていた胴体には、無数の傷が走っている。
荒鷹は、その前に立っていた。
あの日、最後に師匠が乗った機体だった。
何度も見た飛行だった。
何度も憧れた背中だった。
自分の方が速く飛べた。
それだけは、確かだった。
それでも。
「……ったく」
傍らに置かれた布を手に取る。
水に濡らし、固く絞った。
機首を拭く。
一度。
二度。
汚れの下から、かつての塗装が顔を出す。
荒鷹は黙ったまま、布を動かした。
磨いたところで、機体は直らない。
翼も戻らない。
そんなことは分かっていた。
それでも、手は止まらなかった。
「……俺より、上手いくせに」
返事はない。
荒鷹はもう一度、布を絞った。
*
五年が経った。
四十五歳。
随分といい歳になった。
清麿は二十八歳。
今ではすっかり、一人前の競技者だ。
あれから何度も大会に出場し、何度も勝っている。
最近では、随分と綺麗な飛びをするようになったとも聞く。
一度、見てみたいものだ。
僕の方はというと、まあ、ぼちぼちだった。
足は相変わらず言うことを聞かない。
腕は、随分と動くようになった。
箸が握れる。
ペンも持てる。
それから。
操縦桿も。
以前のようにはいかない。
指は震えるし、手首も硬い。
だが、ゆっくりとなら動かせる。
それだけでも、なかなか大したものだ。
*
久しぶりに格納庫へ顔を出した。
懐かしい匂いだった。
油と金属。
遠くで工具の触れ合う音がする。
「……師匠!?」
聞き慣れた声。
「やあ、きよまろ」
「ちょっ、来るなら連絡してくださいよ!」
「驚かせようと思ってね」
「心臓に悪いですって……」
まったく。
相変わらず騒がしい男だ。
車椅子を進めながら、格納庫の中を見渡す。
随分と変わった。
見知らぬ機体が増え、昔使っていた工具棚も場所が変わっている。
五年も経てば、そんなものだろう。
「……おや」
格納庫の隅に、見覚えのある機体があった。
いや。
機体、と呼んでいいものか。
歪んだ胴体。
取り外された翼。
あちこちに残る傷。
五年前の、僕の機体だった。
「まだ置いてあったんだね」
「ええ」
近づいてみる。
思った以上に酷い有様だった。
だが。
「……綺麗だねぇ」
「え?」
「随分と綺麗にしてあるなぁと思ってね」
傷のない塗装には、格納庫の照明が映り込んでいた。
埃もない。
手の届く場所は、どこも丁寧に磨かれている。
「……磨いてますから」
「君が?」
「はい」
「そうかい」
少しだけ、機体を見上げた。
五年前。
最後に見た計器。
最後に聞いたエンジンの音。
最後に握った操縦桿。
どれも、よく覚えていた。
「直せるのかい?」
「無理ですよ」
「だろうねぇ」
清麿は、傍らの布を手に取った。
「……でも、磨くくらいはできますから」
「そうかい」
僕はもう一度、機体を眺めた。
確かに、綺麗だった。
「ありがとう、きよまろ」
「……別に」
彼は少し笑った。
「好きでやってるだけですよ」
「そうかい」
それ以上、何も聞かなかった。
*
「師匠」
格納庫を出ようとしたとき、清麿が声をかけてきた。
「うん?」
「俺、次の大会にも出ますから」
「知ってるよ」
「今度は、もっと綺麗に飛んでみせます」
「それは楽しみだね」
「……見ててくださいね」
振り返る。
二十八歳。
随分と立派になった。
もう、僕が教えることは多くないだろう。
それでも。
「きよまろ」
「はい」
「今度は、君の飛び方を見せておくれ」
彼は少し驚いたようだった。
それから、いつものように笑った。
「……任せてくださいよ、師匠!」
いい返事だった。
まったく。
大した弟子を持ったものだ。
*
机の上に、日記帳を開く。
ペンを握る。
少し震える手で、ゆっくりと文字を書いていく。
昔は何の苦労もなくできたことだった。
今では、たった数行を書くのにも随分と時間がかかる。
それでも。
まあ、書けるだけ上等だろう。
晴れ。
今日は久しぶりに格納庫へ行った。
あの機体が、まだ残っていた。
随分と綺麗だった。
清麿が磨いているらしい。
あれから五年。
彼は立派な選手になった。
次の大会が楽しみだ。
一度、ペンを置いた。
窓の外を見る。
今日も、空は青かった。
雲がゆっくりと流れていく。
風は穏やか。
絶好の飛行日和だ。
十年、翔んだ。
五年、翔ばなかった。
随分と長く空に付き合ってきたものだ。
それでも、どうやら僕はまだ、あそこへ行きたいらしい。
もう一度、ペンを握る。
だから僕は、今日もまた"翔ぼうとする"
読了ありがとうございます。




