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故に  作者: シャムロック
1/4

故に空は遠く

話を考えるのは難しいですね。

『さあ、いよいよ本日の最終レース! 残すところ、あと二名となりました!』


『まず登場するのは、競技歴わずか一年! 恐れを知らぬ大胆なライン取りと、圧倒的な速度で頭角を現した若き新鋭!』


『保井清麿(ほい・せいま)! その荒々しい飛行からついた二つ名は、荒鷹!』


歓声が上がる。


『そして、荒鷹の師匠にあたるのがこの男!』


『競技歴十年! 数多の大会を制し、洗練された美しい飛行で観客を魅了し続ける歴戦の王者!』


『清水有間(きよみず・あるま)! その名も、魅鷹!』


『若き新鋭が師匠を超えるのか! それとも王者が貫禄を見せるのか!』


『師弟対決、いよいよ開幕です!』


*


操縦桿を握る。


右へ、少し。


左へ戻し、ゆっくりと引く。


手首がわずかに震えた。


「……ふむ」


こんなにも重たいものだっただろうか。


昔は何も考えずにできていた動作だった。指先のわずかな力加減で、機体は思うままに動いてくれた。


今は、自分の腕一本動かすのにも苦労する。


それでも、動くようになっただけ上等だろう。


もう一度、操縦桿を握り直す。


机の上に固定された、小さな操縦装置。


その先に翼はなく、視界に広がるのも青空ではなく、見慣れた部屋の壁だった。


窓の外を眺める。


雲が一つ、ゆっくりと流れていた。


五年。


随分と長い時間が経ったものだ。


それでも、目を閉じれば思い出せる。


風を切る音。


エンジンの振動。


そして、あの日の歓声が。


*


「師匠! 今日こそ勝ちますからね!」


格納庫に響く声。


振り返らずとも、誰が来たのか分かった。


「そうかい」


「もっと何かないんですか!」


「そうだね。頑張りたまえ」


「くっそぉ……!」


保井清麿。


二十三歳。


飛行競技の世界に飛び込んで、まだ一年。それでも、既に優勝候補の一角として名が挙がるほどの腕前だった。


速い。


とにかく、速い。


まだまだ無駄は多く、操縦も荒削りだが、その欠点を補って余りある速度と大胆さがある。


普通なら避けるような軌道にも、躊躇なく機体を滑り込ませる。


危なっかしい男だ。


もっとも、それで結果を出しているのだから、何とも言えないのだが。


「きよまろ」


「はい?」


「今日の三番ゲート、どう抜けるつもりだい?」


「直線で入って、一気に旋回します」


「その先が曲がれないんじゃないかな」


「曲がってみせますよ!」


「そうかい」


清麿は、どこか不満げな顔をした。


「師匠って、いつもそうですよね」


「そうかな?」


「そうですよ。もうちょっとこう、熱くなってくれてもいいじゃないですか」


「十分熱いつもりなんだけどねぇ」


「絶対嘘だ!」


思わず笑ってしまった。


随分と元気な男だ。


その勢いが、少し羨ましくもある。


「まあ、怪我には気をつけるんだよ」


「分かってますって」


彼は飛行服の襟元を直すと、格納庫の外へ目を向けた。


「……師匠」


「うん?」


「今日は本気で飛んでくださいね」


振り返った清麿の顔は、いつになく真剣だった。


「もちろんだとも」


そう答えると、彼は満足そうに笑った。


「じゃ、行ってきます!」


「いってらっしゃい、きよまろ」


「……せいまですって」


いつもの訂正を残して、彼は機体へ向かっていった。


どうやら、まだ諦めきってはいないらしい。


*


『荒鷹、スタートしました!』


『第一ゲート通過! 速い! 実に速い!』


モニターに映る機体が、パイロンの間を駆け抜けていく。


いい飛びだ。


相変わらず、荒っぽい。


だが、以前よりも随分と上達している。


旋回へ入るタイミング。


加速の仕方。


機体の傾き。


まだ改善できるところは多いが、それを差し引いても、見事なものだった。


『第三ゲート! 荒鷹、内側へ切り込んだ!』


「……おや」


思わず声が出た。


機体が大きく傾く。


次の瞬間、ほとんど減速することなくゲートを抜けていった。


「通したか」


僕なら選ばない軌道だった。


あれほどの速度では、次の旋回に余裕がなくなる。


けれど、彼は曲がった。


多少姿勢を崩しながらも、確かに曲がりきったのだ。


「……なるほどねぇ」


面白い。


実に、面白い。


『最終ゲート通過! フィニッシュ!』


『出ました! 今大会最速タイム!』


会場が沸いた。


表示された数字を眺める。


なるほど。


随分と速くなったものだ。


「さて」


僕は立ち上がった。


「僕も行こうかね」


*


操縦桿を握る。


エンジンの振動が、身体を伝ってくる。


十年。


随分と長く、この機械に触れてきた。


初めの頃は、何も分からなかった。


どうすれば速く飛べるのか。


どうすれば綺麗に曲がれるのか。


機体が何を嫌がり、何を求めているのか。


一つずつ覚えた。


何度も失敗した。


何度も繰り返した。


そうして、いつしか考えなくてもできるようになった。


操縦桿を引けば、機首が上がる。


倒せば、機体が傾く。


次のゲートへ向かうための、ほんの僅かな間。


そこに無駄な動きはいらない。


『魅鷹、スタート!』


機体が加速する。


第一ゲート。


第二ゲート。


少し傾け、引き起こし、そのまま次へ。


風が流れる。


機体は素直に応えてくれた。


いい調子だ。


第三ゲートが見えてくる。


清麿が強引に抜けた場所だった。


僕は少し外側へ膨らんだ。


十分な間を取り、滑らかに旋回する。


『第三ゲート通過! 荒鷹とは対照的な、美しいライン取りです!』


次のゲートへ。


速度を保ち、機首を向ける。


これが僕の飛び方だった。


十年かけて作り上げた、僕だけの飛び方。


『最終ゲート!』


『魅鷹、フィニッシュ!』


計器に表示された数字を見る。


「……あら」


負けた。


ほんの僅か。


それでも、確かに届かなかった。


『なんと! 魅鷹、荒鷹のタイムを超えられず!』


『優勝は荒鷹! 若き新鋭が、ついに師匠を破りました!』


機体を水平に戻す。


悪くない飛行だった。


大きなミスもない。


無駄な操作も、ほとんどなかった。


むしろ、上出来と言っていい。


それでも負けた。


「……いやぁ」


思わず笑ってしまった。


「速くなったもんだ」


大した弟子を持ってしまったものだ。


*


「師匠!」


機体を降りたところで、清麿が駆け寄ってきた。


「勝ちました!」


「見ていたよ」


「どうでした!?」


「実に速かったね」


「でしょう!」


満面の笑みだった。


よほど嬉しかったらしい。


「でも、師匠の三番ゲート、やっぱり綺麗でしたね」


「君のは少々強引だったからねぇ」


「でも俺の方が速かったですよ!」


「そうだね」


「……悔しくないんですか?」


少し考える。


「悔しいとも」


そう答えると、彼は驚いた顔をした。


「君に負けるとは思わなかったからね」


「へへっ」


「次は負けないよ」


「望むところです!」


差し出された手を握る。


随分と力強い手になったものだ。


まだまだ教えることは多いと思っていた。


けれど、この男はいつの間にか、自分の飛び方を見つけ始めていたらしい。


それは少し寂しくもあり、何より嬉しいことだった。


「さて、そろそろ準備しないとね」


「エキシビションですか?」


「そうだよ」


「楽しみにしてます!」


「そうかい」


今日の大トリ。


格納庫の奥では、双発のジェット機が出番を待っている。


何度も乗り、訓練を重ねた機体だった。


いつものレース機とは勝手が違う。


けれど、こちらはこちらで面白い。


「師匠!」


振り返る。


「俺、ちゃんと見てますから!」


「それは困ったねぇ」


「え?」


「格好悪いところは見せられないじゃないか」


清麿が笑った。


僕も笑った。


*


『さあ皆様! 本日の全競技が終了いたしました!』


『しかし! まだ終わりではありません!』


『本日の最後を飾る、スペシャルエキシビション!』


『競技歴十年! 数々の名勝負を繰り広げ、その飛行技術で観客を魅了し続ける男!』


『魅鷹、清水有間選手による展示飛行です!』


エンジンが唸る。


計器を確認する。


異常なし。


風も悪くない。


実にいい天気だ。


「さて」


スロットルを押し込む。


機体が加速する。


滑走路が後方へ流れ、やがて地面が離れていく。


高度を取り、緩やかに反転。


そのままロールへ移る。


機体を水平に戻す。


操縦桿は軽い。


いい感触だ。


いつものレースとは違う。


今は誰かと速さを競っているわけではない。


ただ、翔ぶ。


その姿を見せる。


僕が十年かけて磨いてきたものは、何も速さだけではないのだから。


『見事なロール! さすが魅鷹! 機体の姿勢が全く乱れません!』


歓声が聞こえる。


機首を上げる。


速度を高度に変え、頂点で姿勢を返す。


降下。


再び機首を起こし、会場の外周へ。


競技用のパイロンが、眼下に並んでいる。


次は、あの列に沿った低空航過。


最後に上昇して、大きく会場を周回する。


何度も確認した演目だった。


進入角を合わせる。


速度を調整する。


一つ目。


二つ目。


パイロンが視界の端を流れていく。


ふと、清麿の飛行を思い出した。


第三ゲート。


あの、少し無茶な軌道。


僕なら選ばない飛び方だった。


それでも彼は通した。


僕より、速く。


「……ふむ」


今度は、僕の番だ。


速さでは負けた。


だが、まだ見せていないものがある。


機体をわずかに内側へ寄せる。


ほんの少し。


次の旋回にも、まだ余裕はある。


この機体の癖も、よく知っている。


通せる。


そう判断した。


操縦桿を倒す。


いつもと同じように。


身体に染みついた、何千回目かの操作だった。


次の瞬間。


乾いた衝撃が走った。


「……ん?」


視界の端で、白い布が弾けた。


裂けたパイロンの一部が、機体の左側へ舞い上がる。


直後、鈍い音。


エンジンの唸りが乱れた。


警報が鳴る。


機体が震えた。


「……ああ」


計器を見る。


左エンジン。


推力が落ちている。


吸い込んだか。


機体を水平に戻そうとする。


左右の推力差を抑え、姿勢を整える。


操縦桿を引く。


反応はある。


まだ制御は効く。


ただ。


「……少し、低いねぇ」


速度が落ちている。


機体が沈む。


滑走路は見える。


だが、遠い。


思った以上に、遠い。


機首を向ける。


足りるか。


もう少し。


操縦桿を引く。


機体が応える。


まだ。


もう少し。


「……参ったな」


最後まで操縦桿は離さなかった。


それだけは、覚えている。


*


『……魅鷹選手、機体に異常が発生した模様です』


『高度が下がっています。これは……』


『……!』


一瞬、言葉が途切れた。


会場に、鈍い音が響く。


先ほどまでの歓声が、消えた。


『……ただいま、状況を確認しております』


遠くでサイレンが鳴り始める。


『救助隊が現場へ向かっています』


『繰り返します。現在、救助隊が……』


その声も、やがて途切れた。


*


白い天井だった。


見慣れない天井だった。


何度目に目を覚ましても、やはり白い天井だった。


「……ふむ」


どうやら病院らしい。


随分と長く眠っていたそうだ。


身体を動かそうとする。


動かない。


もう一度。


やはり、動かない。


妙なものだ。


動かしているつもりなのに、動いている感覚すらない。


医師の説明によれば、脊髄を酷く傷つけているらしい。


命が助かったのは幸運だったそうだ。


そうかもしれない。


少なくとも、こうして空を見ることはできている。


窓の向こうには、小さな雲が浮かんでいた。


「先生」


「はい」


「僕は、また飛べますかね」


医師は少し黙った。


それから、ゆっくりと言った。


「……まずは、身体を動かせるようにしていきましょう」


「そうですか」


なるほど。


どうやら、随分と長い道のりになるらしい。


*


「……師匠」


清麿が訪ねてきたのは、それからしばらくしてのことだった。


「やあ、きよまろ」


随分と疲れた顔をしている。


以前はあれほど騒がしかったというのに、今では別人のように静かだった。


「身体、どうですか」


「まあ、見ての通りだよ」


「……」


「なかなか言うことを聞いてくれなくてねぇ」


笑ってみる。


彼は笑わなかった。


しばらくの間、時計の音だけが聞こえていた。


「……師匠」


「うん?」


「俺、勝ったんですよね」


「そうだね」


「初めて、師匠に」


「見事だったよ」


彼は俯いた。


「……なのに」


言葉が途切れる。


僕は続きを待った。


「……師匠の方が、ずっと上手いのに」


小さな声だった。


「そうかな」


「そうですよ」


顔を上げる。


「俺、まだ師匠みたいに飛べないんですよ」


「そうかい」


「それなのに……」


彼は再び口を閉じた。


窓の外へ目を向ける。


今日も空は青い。


「きよまろ」


「……はい」


「三番ゲート、見事だったね」


「……」


「僕には、あの飛び方はできないよ」


清麿は何も言わなかった。


「次はどう抜けるのか、楽しみにしているんだけどねぇ」


「……師匠」


「うん?」


「……馬鹿ですよ、ほんと」


そうかもしれない。


僕は少し笑った。


彼は、最後まで笑わなかった。


*


事故調査を終えた機体が、格納庫の隅に置かれていた。


歪んだ機首。


裂けた外板。


取り外された翼。


かつて滑らかな曲線を描いていた胴体には、無数の傷が走っている。


荒鷹は、その前に立っていた。


あの日、最後に師匠が乗った機体だった。


何度も見た飛行だった。


何度も憧れた背中だった。


自分の方が速く飛べた。


それだけは、確かだった。


それでも。


「……ったく」


傍らに置かれた布を手に取る。


水に濡らし、固く絞った。


機首を拭く。


一度。


二度。


汚れの下から、かつての塗装が顔を出す。


荒鷹は黙ったまま、布を動かした。


磨いたところで、機体は直らない。


翼も戻らない。


そんなことは分かっていた。


それでも、手は止まらなかった。


「……俺より、上手いくせに」


返事はない。


荒鷹はもう一度、布を絞った。


*


五年が経った。


四十五歳。


随分といい歳になった。


清麿は二十八歳。


今ではすっかり、一人前の競技者だ。


あれから何度も大会に出場し、何度も勝っている。


最近では、随分と綺麗な飛びをするようになったとも聞く。


一度、見てみたいものだ。


僕の方はというと、まあ、ぼちぼちだった。


足は相変わらず言うことを聞かない。


腕は、随分と動くようになった。


箸が握れる。


ペンも持てる。


それから。


操縦桿も。


以前のようにはいかない。


指は震えるし、手首も硬い。


だが、ゆっくりとなら動かせる。


それだけでも、なかなか大したものだ。


*


久しぶりに格納庫へ顔を出した。


懐かしい匂いだった。


油と金属。


遠くで工具の触れ合う音がする。


「……師匠!?」


聞き慣れた声。


「やあ、きよまろ」


「ちょっ、来るなら連絡してくださいよ!」


「驚かせようと思ってね」


「心臓に悪いですって……」


まったく。


相変わらず騒がしい男だ。


車椅子を進めながら、格納庫の中を見渡す。


随分と変わった。


見知らぬ機体が増え、昔使っていた工具棚も場所が変わっている。


五年も経てば、そんなものだろう。


「……おや」


格納庫の隅に、見覚えのある機体があった。


いや。


機体、と呼んでいいものか。


歪んだ胴体。


取り外された翼。


あちこちに残る傷。


五年前の、僕の機体だった。


「まだ置いてあったんだね」


「ええ」


近づいてみる。


思った以上に酷い有様だった。


だが。


「……綺麗だねぇ」


「え?」


「随分と綺麗にしてあるなぁと思ってね」


傷のない塗装には、格納庫の照明が映り込んでいた。


埃もない。


手の届く場所は、どこも丁寧に磨かれている。


「……磨いてますから」


「君が?」


「はい」


「そうかい」


少しだけ、機体を見上げた。


五年前。


最後に見た計器。


最後に聞いたエンジンの音。


最後に握った操縦桿。


どれも、よく覚えていた。


「直せるのかい?」


「無理ですよ」


「だろうねぇ」


清麿は、傍らの布を手に取った。


「……でも、磨くくらいはできますから」


「そうかい」


僕はもう一度、機体を眺めた。


確かに、綺麗だった。


「ありがとう、きよまろ」


「……別に」


彼は少し笑った。


「好きでやってるだけですよ」


「そうかい」


それ以上、何も聞かなかった。


*


「師匠」


格納庫を出ようとしたとき、清麿が声をかけてきた。


「うん?」


「俺、次の大会にも出ますから」


「知ってるよ」


「今度は、もっと綺麗に飛んでみせます」


「それは楽しみだね」


「……見ててくださいね」


振り返る。


二十八歳。


随分と立派になった。


もう、僕が教えることは多くないだろう。


それでも。


「きよまろ」


「はい」


「今度は、君の飛び方を見せておくれ」


彼は少し驚いたようだった。


それから、いつものように笑った。


「……任せてくださいよ、師匠!」


いい返事だった。


まったく。


大した弟子を持ったものだ。


*


机の上に、日記帳を開く。


ペンを握る。


少し震える手で、ゆっくりと文字を書いていく。


昔は何の苦労もなくできたことだった。


今では、たった数行を書くのにも随分と時間がかかる。


それでも。


まあ、書けるだけ上等だろう。


晴れ。


今日は久しぶりに格納庫へ行った。


あの機体が、まだ残っていた。


随分と綺麗だった。


清麿が磨いているらしい。


あれから五年。


彼は立派な選手になった。


次の大会が楽しみだ。


一度、ペンを置いた。


窓の外を見る。


今日も、空は青かった。


雲がゆっくりと流れていく。


風は穏やか。


絶好の飛行日和だ。


十年、翔んだ。


五年、翔ばなかった。


随分と長く空に付き合ってきたものだ。


それでも、どうやら僕はまだ、あそこへ行きたいらしい。


もう一度、ペンを握る。


だから僕は、今日もまた"翔ぼうとする"

読了ありがとうございます。


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