第十九話 宰相の懐刀
部屋を出た後、私は自分がどう歩いて屋敷に帰ってきたのか記憶がなかった。
「……マリアベル様、どうされましたか?」
かろうじて、帰ってきてキャロリアにそう尋ねられたことだけは覚えている。
「殿下と、いやミラベル様と婚約破棄することになった」
「は?」
会話といっても、それだけを告げた固まったキャロリアの隣を素通りしただけだが。
自室に入り、いすに腰をかける。
……実感がわいてきたのはその時だった。
「そうか、私はもう殿下の婚約者ではないのか」
空虚な響きを持つ声だった。
やらないといけないこと、片づけないといけない仕事は山ほどある。
けれど、そのすべてに意識を向けることができなかった。
「殿下は、本気で私のことが嫌いだったのか」
そうではない、と私は思っていた。
何か考えはあるのだろう。
しかし、それを言ってくれる人ではないことを知っていたし、殿下が無責任なことをする人ではないとも知っている。
……だから、これは私がしてきた何かが、殿下の逆鱗に触れたのだろう。
そういう人であると、私は殿下を知っている。
故にこれはただの愚痴だ。
責めるべきは自分だと理解した上での、一人だからこその言葉。
「……私を守ってくれるのではなかったのですか、殿下」
その言葉が誰の耳に入ることもなく、消える。
そしてその日、私は王太子の婚約者という立場を失った。
◇◇◇
殿下の婚約者、それは大きな権限を持つ立場だ。
しかし、それを失ってから私の生活が大きく変わることはなかった。
何せ、婚約者という立場がなくても、そもそも私の立場は大きく変わらないのだから。
故に婚約破棄から一週間、私は粛々と自身の仕事を行っていた。
「……あれが」
「ミラベル殿下に婚約破棄された……」
宮殿を歩く私に、好奇の視線が突き刺さる。
その中には私に勝ち誇るような視線もあって、そばにいるキャロリアが露骨に不機嫌そうになるのも見える。
「……前まで、あんなにマリア様にすり寄っていたのに」
そんなキャロリアと対照的に私の心に苛立ちが浮かぶことはなかった。
人が手のひらを返すことに私は慣れている。
ずっと私はそんな人の視線にさらされてきたのだ。
今更思うことなどない。
……ただそんな人々の中、数少ない例外こそが殿下だった。
仕事中にもかかわらず、また思考が殿下のことになりそうで、私は頭を切り替える。
「おっと。これは紅蓮の魔術師様ではありませんか」
聞き慣れた声が背後から聞こえたのは、その時だった。
私と共に振り返ったキャロリアの顔が大きくゆがむ。
「……何のご用ですか。サイファン殿」
「何、ご傷心の将軍殿を元気づけようとしただけですよ」
そういって、口の端をつり上げて笑う糸目の白髪の男。
その男の名はサイファン・アズリバン。
優秀な文官として名が高く、二十代でありながら宰相の懐刀と言われる存在にして。
……私、紅蓮の魔術師の名声が高まることを、徹底的に敵視してくる存在だった。
「だから言ったでしょうに。そんな無意味に評判が高くなると、こういう時に落ちると」
サイファンの言葉に、キャロリアの額に青筋が浮く。
「何ですか、そんなことをいいにきたのですか?」
「ええ。今まで英雄視していた女性達が手のひらを返す様子が面白いなと思いまして」
「へ、へぇ……」
爆発寸前のキャロリアに、サイファンは変わらぬ笑顔で続ける。
「貴族の女性はやはり面白いですよね。相手が優位と見るとすり寄るのに、弱みを見せたと見た瞬間、嫉妬を露わにする」
「キャロリア、大丈夫だ」
キャロリアが沸騰したのはその瞬間だった。
それを感じた私はとっさにキャロリアを手で制止する。
どれだけ嫌な男だとしても、相手は文官でキャロリアは武官だ。
軽くこづくだけでも死にかねない。
しかし、普段私に制止されたら止まるキャロリアが、今回は収まらなかった。
サイフォンをにらみつけ、叫ぶ。
「何ですか! 貴方もあの人達みたいにマリア様が悪いと言うんですか! こんなに頑張っているマリア様の方に責任が……」
「あるわけないでしょう」
その瞬間、サイフォンが纏っていたふざけていた雰囲気が消える。
ぞっとするほどの冷たい雰囲気を宿しながら、サイフォンは続ける。
「今回の婚約破棄、おかしいのはミラベル殿下ですよ。いや、その程度の話ではない」
「その程度の話?」
「おやおや、本人が無自覚とは。……これは国王陛下の責任、ということですよ」
普段なら、国王、宰相にすり寄りにいく人間であるはずのサイフォンの言葉に、私もキャロリアも言葉を失う。
その反応を意に介すこともなく続ける。
「国王陛下は決して絶対に紅蓮の魔術師を手放すべきではなかったという話ですよ。──紅蓮の魔術師を手放すなど、余程の馬鹿でしょう」




