合唱編
僕には元カノが三人いる。
それを中学校に入ってクラスメイトに言ったら、ずっとバカにされ続けている。
今も女子と喋っているといつもバカにしてくるのがいる。笠島という奴だ。
「おぉぉ友里としゃべっちょんね〜」
「異性と喋っちゃダメか?」
こんな会話を毎回していた。
僕は彼がキライだ。毎度毎度バカにしてきてうんざりなんだ。僕だって女子としゃべりたい。クラスに鈴木というめちゃくちゃ女子としゃべっている男がいる。正直うらやましい。彼は休み時間のたびに友里ちゃんとか小春ちゃんとかとしゃべっている。しかも笠島に関しては彼女らの似顔絵を描きやがっている。気持ち悪いな、画像を拡大して切り抜いて描いて自慢している。僕だってやりたいのに僕がやったら絶対に嫌われてしまう。そんなのは嫌だから、僕は一人で女子の絵を描いて楽しんでいる。
家ではいつも勉強しているが、楽しみもあった。自然科学部と、三十万円という大金をはたいて買ったPCと、それで「放置少女」「ウマ娘」をやること、そしてかんなちゃんと遊ぶことだ。例えば、夜まで勉強して疲れたら、親に内緒でLINE通話を繋いで一時間以上おしゃべりをしている。みんなには親の前でしか使えないと言っているからもちろんそんなことしてるとは思われない。
席替えもビッグイベントだ。担任の増田先生はくじ引きで決める。僕の計算だと、前後と左右に女子が来る確率は約38.9%だ。最悪の場合、周りのどこにも女子がいない現象が発生してしまう。僕の計算だとかんなちゃんととなりあうのは約7.6%だ。次が最後の席替えだから、これで隣じゃなければ来年に持ち越しだ。
かんなちゃんは突然僕に甘えてくれなくなった。ここ一週間、なんだかイライラしているように見えるな。ひどいな、かんな。でも、わからないことは解明しないと気が済まない。窓からかんならしき人物が見えた。ここは尾行だ!
この学校は中高一貫校で、敷地内には中学棟と高校棟が存在する。両者の間には連絡橋が架けられているので、下に降りずとも移動することができる。彼女は迷いなく高校棟に向かって歩いていく。スタスタと歩く佐久間に対し、彼はドスドスと音を立てて歩く。当然彼女に気づかれ、彼は焦る。
「あっやあ偶然だね」
同じ方向に歩いていて偶然はおかしいだろ、しかし佐久間は
「どないしたん?今日もかっこええね♡」
と言ってそのままトイレに駆け込んで行った。
僕、かんなちゃんにかっこいいなんて言われちゃったから、かんなちゃんのことを少しでも疑った自分がバカで仕方がないと思った。もう尾行はやめることにしよう。かんなちゃんが浮気なんてするはずないさ。僕ってかっこいいもんね。
六時間目の理科が終わり、ホームルームで挨拶をしてみんなが掃除を始めた。僕は真っ先に自然学部の部室に向かい、スマホゲームを始める。一緒にやるのは理央ちゃんだ。僕はいつも理央ちゃんとスマホゲームをして楽しんでいる。ぜひかんなちゃんを自然科学部に連れ込みたいところだか、かんなちゃんは吹奏楽部だからそれは諦めた。ゲームが白熱している時、掃除を終えたマルと一緒に笠島が来た。滅多に来ないくせに何食わぬ顔できやがって。腹立つ野郎だ。でも直接言ったら大変なことになるからやめておく。あいつは深川と仲がいい。深川はサッカー部だから殴られたらたまらない。しかも笠島は無駄に多くの女子と仲がいいからほとんどの女子に繋がる。女子だけじゃなくクラスから嫌われる可能性も大いにある。僕の計算だと最大約80%のクラスメイトから嫌われるだろう。
かんなとしゃべりたい。ふとそう思って窓の外を眺めたら、かんなちゃんっぽい姿が見えた。自然科学部の窓からは高校棟の四階から六階までの階段が見える。彼女はそこを歩いていた。でも、僕は自分の目を疑った。かんなちゃんが知らない男と歩いているのである。頭をナデナデされている。うそだろ、この彼氏の僕でさえそんなことしたことないのに、知らない男に先を越されている。
笠島が何か言っているが、そんなもの知らない。僕は狂ったように高校等の階段に向かって走り出した。一階当たりの段数はおよそ三十段、二区画に分かれていて、十段飛ばす。これを中学棟五階から二階に下り、橋を渡り、さらに先ほど目撃した高校棟六階まであがる。一階を十秒で下り、十五秒で登ると考えれば、一分四十秒でいける。
体重を考えていなかった。すでに十分が経過しているがまだ高校棟に辿り着いていない。やっとのことで音楽室に到着したら、案の定かんなちゃんと知らない男が吹奏楽部の扉の前にいた。二人とも、遠くてよく顔が見えないが、かんなは絶対かんなで間違いない。あの男の前にある楽器はティンパニか。パンティーみたいな名前しやがって生意気な男だ。
まさか、かんながあんな老けたような顔した男についていくなんて。(でも背は高い。)おかしくなりそうだ。あんなのより僕の方がいい男なのに。もうカンナには失望した。その日以降、LINEをブロックして、積極的に彼女を避けた。その次の週、何食わぬ顔で前のようにデレデレしてきたから、
「死ね!」
と一言放ち、走って逃げた。
翌年のクラス替えでも同じ組になったが、彼女は二年生の最後の方からずっと不登校である。彼女を覚えているのは、クラス名簿と、開いた机だけだった。
【目指せ!ハーレム】
新しいクラス、総勢三十四人。昨年度の退学で現在の学年生徒数は百三十名になった。あいかわらず笠島がいる。悔しいのが、あいつは僕より成績がいいことだ。評定オール5で、定期テストの順位は常に一桁である。僕の方が真面目な人間なのに、評価基準がどうかしていると思う。
かんなを失ってから、彼の時間は止まっていた。彼の目には他の男子が女子に関わっているところしか写らなかった。羨ましかった。鈴木が休み時間に小春ちゃんと話す、庄司がさくらちゃんの椅子に座る、笠島が友里ちゃんの席を掃除の時に運ぶ、武田が由紀ちゃんと話す、遥ちゃんが深川に数学を聞いている。
すべてがうらやましい。気づけば文化祭も体育祭も、東京研修も終わっていた。次は合唱コンクールだ。あーあ、僕ソプラノ入りたい、女子に囲まれたい!そうしたら笠島も嫉妬するだろう。それどころか、男子全員が羨ましがるだろうな。よし、高音を出せるように頑張って練習するぞ。
それからというもの、たくさんカラオケに行き、たくさん歌を歌った。YOASOBIの夜に駆ける、GReeeeNのキセキなど、高音の曲を歌って、ついに九十三点を出した。これでソプラノ間違いなしだ。笠島の羨ましがる顔を想像するだけで笑みが溢れてしまう。
とうとうパート分けの日だ。音楽の先生は今年も菅原だ。声と目が大きい優しい吹奏楽部の顧問の先生だ。一人ずつ呼び出されて発生練習をするという単純な方法だ。くじ引きで当たったのは、一番のはまちゃんだった。いつもと変わらない出席番号で進んで、僕の一人前の沙緒里ちゃんまで来た。こういう先生がいない時となればすぐ笠島が鈴木のとこにやってきて話を始める。ひひひひという下品な笑いには心底腹が立つ。ただ、そんな奴も今に見返してやるからな。そう一人で妄想していると、菅原が
「吉野おおおお」
と教室中に響く大きな声で僕を呼んだ。どうやら妄想していた間にとっくにさおちゃんは戻ってきていたようだ。みんなに笑われたが気にしない。別になんとも思わない。小学校の頃にいじめられてたせいで、心が真っ黒に塗り固められてしまった。しかし、下の心は極めて美しかった。まるで真珠のように輝き、水のように無垢な下心。
菅原と一対一、少し緊張するが、先生のピアノに合わせて全力で裏声を出す。菅原は少々怪訝な顔をしたが、何も気にしなかった。ただ、女子の輪に入りたくて。
発表のときだ。先生が紙を見ながら、男子のパート分けを読んでいく。
「ソプラノは吉野」
この一言でクラスが凍りついた。女子も、男子も。僕は平然をよそおった。
【プラクティス、コーラス】
課題曲は「旅立ちの日に」と「大地讃頌」、自由曲は「COSMOS」になった。COSMOSがどういう意味だかよくわからないが、コスモ、要するに宇宙の複数形だろう。この曲は特に高音が命で、ソプラノの旋律がひどければ曲もひどくなると言っても過言ではない。ただ、彼には問題が一つある。この曲は音が高すぎることだ。最高音がC3(ド)から一オクターブ上のミという男声には出せない高音である。これを彼はどうやって出すというんだ?
第一回の練習日、まずはパートリーダーを決めなさいということで早速ソプラノのメンバーで集まった。流石の彼もここまで女子しかいないと後ろめたさを感じたようだ。だから後ろの方で聞いていた。しかし、光栄の
「よしのとかどうやろ?」
という一言でみんながそれに乗り始め、とうとう、みんなが吉野を推薦する事態が発生した。彼はここでやっと後悔した。これは大変なことになったぞ、と。結局女子の波に押され彼はソプラノのパートリーダーとなってしまったのである。また、ソプラノのパートリーダーは全体のリーダーでもあるという風潮があり、彼が今年度の合唱コンクールを引っ張っていくことがこの瞬間に決まったのであった。
「えっとまずは一回ずつ歌おうか」
僕はそれっぽく言ってみて、みんなを並ばせた。この部屋は、どこをみても女子しかいない。みんな別々の部屋で、僕だけ男子と離れている。前にも横にも、スカートをフリフリさせて仲良くおしゃべりしている女子ばかり。いい匂いがする。長い髪の毛が揺れている。僕は何のためにソプラノに入ったんだ?なんでクラスを引っ張る事態になっているんだ?僕はずっと動揺していた。女子の中に男子はついていけない。そんな液体窒素のように冷たい現実を僕は身体中にかけられたような気分だった。
みんな歌が上手い。僕には音が高すぎて出ない。それでもみんなは何も言わない。
「とてもいいと思います」
僕にはそれしか言えなかった。
放課後練習も始まり、僕はさらに忙しくなった。
「掛け合わせのところが少しズレてる気がする」
「高音の最初に迷いがある」
「もっとキレイにハモれるはず」
「バスの声が聞こえない」
僕は少しずつ音楽がわかったきた気がした。彼なりにみんなの歌を聴いて考えて、どうすれば良くなるか一生懸命に考えた。何が僕をここまでさせているのかわからなかった。どうしてこんなに音楽に本気になるんだ?でも、楽しいと感じるようになってきた。女子と同じ空間にいることができるからではない。僕はなんとなくわかった。女子が周りにいようが幸せじゃない。だれかお互いに寄り添えるようなパートナーが欲しかったんだ。かんなを失った悲しみはもうない。でも誰もいない悲しみは深い。彼女が欲しい。
僕が一生懸命やっているのに、テノールの男子たちがすぐ騒ぐ。僕はふと思った。去年の笠島は合唱委員としてこの状況を味わっていたのか。自分が頑張っているのにばかたちが喚き散らかして面倒なこと。(別に笠島はそんなこと思ってもいない。)端っこに固まっている陰キャ、他の人を待っている真面目な男子、ばかには無関心な女子。僕はなんとなく笠島に同情した。そして、怒りが込み上げてきた。あんまり腹が立ったので、僕はこう言った。
「リーダーが女子ならいうこと聞くんすか」
ばかの顔々には明らかに僕のことを軽蔑する表情があった。
「リーダーが男子だからそうやって騒ぐんすか」
「はい」
西崎がでかい声で言った。
「じゃあどの女子がいい」
テノールに動揺が広がった。何も答えない。
「どの女子がいいかって聞いてるんだけど」
沈黙が広がる。女子は興味深く眺めている。
「なあ西崎、小春ちゃんか?友里ちゃんか?遥ちゃんか?なあ武田、由紀ちゃんか?わかちゃんか?夏希ちゃんか?」
誰も、何も答えられなかった。
「そこの端に固まってる奴らもさぁ」
ここまで来て僕は急に言葉に詰まった。いままでずっと感情に任せて言っていたからだ。何もオチを考えていない。これじゃあただの正義感が強いうざいやつだ。端にいるやつの話は出さなければよかったと後悔したが、ここで止めてはダサい。
「リーダー変えます」
それが僕が導き出した「オチ」だった。ソプラノのパートリーダーは変えず、全体のリーダーを変えるということで先生に報告してきた。そして、全体のリーダーは光栄にした。たぶん一番みんなからの支持率が高い。
パート別練習も残りわずかとなって、曲も完成に近づいてきた。僕は女子との親交を深めることができた。元々仲が良かった女子はなおさらだ。リーダーが光栄になってからはみんな集中するようになって、残る問題は僕が高音を出せないことだけになった。大問題である。今までリーダーという名目でみんなの前に立って自分は歌っていなかったが、さすがにぶっつけ本番で歌うのは無理がある。「夜に駆ける」より最高キーは一つ低いが、実はカラオケで九十三点を取った時の失点源はこのラストのサビの転調部分だったのだ。
笠島がピアノを弾き始める。さくらちゃんが指揮を振る。僕は歌詞を声に出す。
「夏の草原に銀河は高く歌う」
場面を想像してみる。
「君の温もりは宇宙が燃えていた」
友里ちゃんの優しさは宇宙が燃えるような…ってどういうことだ?
「百億年の歴史が今も身体に流れてる」
シャープばかりの部分も声を出せた。体が歌に吸い込まれていくような気がした。歌と一体になって、どこまでも高音が出せるような気がした。サビで声がさらに裏返る。女子の声が美しく澄んでいる。僕は指揮をよくみて、さらに自然に声が出るようになってくる。
「僕らは一つ、みんなみんな」
次がこの曲の最高キーだ。僕は今どこまでも高い音が出せる。わかったんだ。歌を歌うということを。
歌い終わった。僕はまだ興奮していた。女子はみんなが口を揃えて
「これでソプラノは完成やね!」
と喜んでいた。
これが最後の放課後練習だ。「旅立ちの日に」を歌い終える。「COSMOS」も歌い終える。「大地讃頌」が終わる。二曲の高音が僕ののどを痛めつける。それぞれのパートリーダーがフィードバックをする。僕も言う。そしてみんな帰っていく。ただ、僕は去年のようにソプラノに招集をかけ、その後も少し練習した。これが最後のはハーレムかもしれない。実は僕はかなり寂しかった。しかし、僕は女子がたくさんいれば幸せになれるわけではないことを学んだんだ。ただ、一緒にいるだけで、静かに、時を過ごすことができるような関係が欲しかったんだ。
ソプラノはその三十分後くらいに練習を終え、去年のように僕は寄せ書きを提案した。みんなお互いの歌詞カードに書き合っていたが、僕のカードに書いてくれる人はいなかった。チーリンちゃんが義理で「ガンバ」と書いてくれたが、それ以外なく、僕は気を落とした。男子と女子の大きな壁を感じた。でも、半分わかっていた。この練習期間を通して、僕は「女子」と言うものを少しずつわかってきた。ただ自分の欲を満たすためにいるわけじゃないんだ。何か大切なものを学んだんだ。しかし、そんな時友里ちゃんが一人歩いてきて、少し恥ずかしそうに
「書き合おうよ」
とボソリといった。僕は驚いた。そして嬉しかった。二人で書き合った。友里ちゃんは一言、
「今までのよしのカッコよかった!!」
と書いた。
【身体を歌に乗せて!】
僕は滋賀県の超大型都市(とても便利で全てがここにあるといえよう!)、篠原駅に住んでいる。友里ちゃんだってほとんど同じ場所に住んでいるのに、どうやら笠島と鈴木はそれが羨ましいようで、いつも一緒にするなと言っていた。やっぱりあいつらは友里ちゃんのこと好きなんだな。まあでも残念、僕は彼女の隣で歌うのさ。そしてこれは鑑賞の時の座席も隣だということさ。まあ僕はそれを狙ったわけではない。偶然だ。ソプラノが四列×四列と身長が高い僕(由紀ちゃんより十五センチくらい小さいが。)が端に一人、その反対にテノール、バスと続くわけだが、あいつらは二列目のパートの境で隣り合っている。テノールが二列×四列であることから、僕と友里ちゃんが隣り合う確率はたったの二パーセントなのさ。
乗り換え駅の京都駅で緊張してトイレに行きたくなったので、ギリギリまでトイレに入る。便器に座った姿勢で長時間力みながらスマホをいじくると、直腸脱の危険性があるから、スマホはトイレットペーパーのラックの上に置いておく。僕ってなんでも知ってる!
確かこの周辺には笠島が住んでいるそうだが、自分よりもビッグステーションに住んでいることが許せない。
ところで、ロームシアターに行けるバスがあるが、地理に詳しい僕は電車の方が早く行けることを知っている。そして僕はその時きた電車に急いで乗って、電車の中で歌詞カードを眺める。僕はあんなに練習したんだ、と自分に言い聞かせ、高音を美しく出せるようにイメージトレーニングを続けた。僕がソプラノの高音を仕上げたんだ。そしてみんなで最高の合唱をして、ベストクラス賞を取る。合唱委員の僕が前に出て賞状をもらい、記念撮影をして、友里ちゃんと一緒に帰って、家まで送ってあげて、、、
しかし僕はイメトレに熱中しすぎていた。よく考えると、これ、全然違う電車だ。なんで僕、奈良線なんか乗っちゃったんだ?乗り換えられる東福寺を通り過ぎてしまった。急いで次の駅で降りた。稲荷という駅がどこなんだか知らないが、ふと僕の頭に笠島の言葉がよぎった。
ー「稲荷って行っても神社しかないけえ、電車も少ないし」
終わったと思った。合唱委員だから集合は九時だ。今日は平日、時刻は八時四十五分。時刻表を調べる。僕はさらに青ざめる。スマホを京都駅にわすれた。トイレのラックの上である。終わった。プラットホームの端の紙の時刻表を見に行く。急いで折り返さなければならない。心臓がバクバク動いている。手の汗が止まらない。足取りが早まる。やっと時刻表の前まできた。次に来る電車は12分後、しかも普通列車だから京都駅までかなり時間がかかる。スマホを取りに行っている時間はない。取りに行けば遅刻する。スマホが取りにいけない。心配だ。さらに追い打ちをかけるように不幸が重なる。時刻表を見ると、次の発車は四十六分だ。現在時刻は四十六分。終わった。時刻表を見るためにホームの端にきている。対岸の線路から音が鳴り始めた。遠くに、こっちに向かってくる電車が見える。これに乗れなければ時間通りに到着するのは絶望的だ。走る。走る。汗が止まらない。足が動かない。跨線橋を通る以外反対側のホームに行くことは不可能である。階段を登る。いくつかの窓は大きく開かれて、したがよく見える。すでに電車はホームに滑り込んで、扉を開けた。このままでは間に合わない。ドスドスドスドス。僕は大博打に出る。カバンを投げて扉に挟まれば開いてくれる。発車ブザーとともに扉が滑りだす。やっと腕を振り上げる。距離はおそらく十メートルはある。ミスれば本当に終わる。僕はめいいっぱい力をかけて、窓から扉をめがけてカバンを投げた。
ブレーキ緩衝音が聞こえる。景色がゆっくりと後ろに下がっていく。間に合った。なんとか間に合った。これで遅刻は回避できる。スマホはロームシアター前の公衆電話から母に持って帰ってもらうよう頼んだ。全ての問題は解消された。あとは最後のコーラスを楽しむだけだ!
ホールについて、雛壇の準備をする。まだ稲荷駅の動揺がおさまっていないが、ひとまず一般生徒が入場してくるまではゆっくりできる。もう一人の委員の夏希ちゃんと話してみる。おもしれぇ女だな、と思った。
しばらくして、みんなが入ってきた。全クラスがリハーサルを始める。僕は舞台裏に行って委員会の最後の集まりに参加する。鑑賞中の諸注意を読み上げるだけだ。委員会のみんなで舞台裏で最後の確認をする。菅原が最後に「頑張っていこう!」と言って、開幕を知らせるブザーがホール中に鳴り響いた。校長やPTA会長の藤原さん、開式の言葉などが進んでいく。次は僕の出番だ。
「…以上のことを注意して、良いマナーで鑑賞しましょう」
ソプラノでつちかった美声で閉じる。さて、あとはもう役割はないから友里ちゃんの隣に座りにいこう。ワクワクしてしまう。彼女より先に席に着き、腰を下ろす。彼女がトイレから戻ってきた。やけに時間がかかったな。なんでだろう??教えて欲しいな。わからないことは突き止めなくちゃ。友里ちゃんがスッと腰を下ろす。ふわっといい香りがする。つい鼻の下が伸びる。トイレの時間の話なんてとっくに忘れていた。僕は夢中になっていた。
ついに一年A組の合唱が始まる。僕の身体は音楽モードに切り替わった。一年生の元気で明るい声がとても印象的だ。ただ、学年全体を通して男女比率がおかしい、高音がほとんど聞こえない。僕らの方が上手いよね、と友里ちゃんに話しかける。彼女は静かに微笑んだ。B組、C組、D組と進んでいくが、どれも知らない曲ばかりだ。そして一通りの合唱を聴き終わり、次は二年生の合唱だ。
去年の「マイバラード」が懐かしい。笠島が僕に叱責していたのを覚えている。うざかった。お前だってそんなに上手くないくせに、とその時は思った。僕がサッカー部に喧嘩を売ってしまったのも合唱練習中だった気がする。でも今はクラスのほぼトップだ。でも、もうどうでも良かった。張り合わなくたっていい。個性なんだから。自分に納得していると、突然友里ちゃんに話しかけられた。
「ちょっと独り言多ない?」
耳が熱くなった。知らないうちに独り言を言っていたんだ。どの部分を言っていたのかわからないが、どこにせよ恥ずかしい。しかもそれを友里ちゃんに聞かれるなんて!
二年生の最後のクラスの自由曲の発表が終わる。昼休憩だ。ご飯は各自持ってきたものをよくわからん部屋で食べる。鈴木のところへ行く。笠島も一緒にいたが、不思議と嫌悪感が湧かなかった。もしかすると、僕の勝手な偏見で自分勝手に嫌っていただけなのかもしれない、と思った。
昼休憩が終わって、とうとう自分たちの学年だ。僕のクラスは三年生最後だ。最後は美しく終わらせたい。この二ヶ月の練習に有終の美を飾らなければならない。なによりこれはおそらく人生で最後の合唱コンクールだ。高校生は合唱コンクールがないのだ。
とうとう自分のクラスだ。先頭で舞台に登り、マイクでクラス紹介をする。その間にクラスメイトたちがどんどん雛壇に並んでいく。夏希ちゃんと交互に読み、「それではお聞きください!!」という言葉でしめる。
僕は女子たちの間を縫って列に入る。夏希が手を挙げる。会場に張り詰めた空気が流れる。静寂だ。誰かがプログラムの紙を落とす音が大きく聞こえる。誰かが咳き込む音が大きく聞こえる。わかちゃんが静かに演奏を始める。彼女の演奏は、繊細でミスがない。「旅立ちの日に」は静かに始まり、静かに終わる、卒業にぴったりの音楽だ。見どころはラストの女声と男声の掛け合わせだ。リズム感が観客を引き込む。前奏が十小節ある。歌い出しで声がおかしくならないように僕は最高に繊細に気をつける。
「この広い大空に」
ここでクレシェンドが入る。力強さが増し、歌詞に込められたメッセージが心に響く。
「夢を託して」
ラストサビだ。夏希の指揮に力がこもる。わかちゃんのピアノの音がさらに力強くなる。この部分はこの曲の顔だ。ソプラノの声がよく目立つ。僕は慎重に、一つ一つの音を正確に出す。リズムに乗った身体が軽くなる。この後の長い高音もいける。
「おおぞらに」
身体が勝手に歌い出す。歌が僕を連れていってくれる。ラスサビの二周目があと少しで終わる。次が最後のフレーズだ。この曲の最長かつ最高のキーだ。でも怖くない。
「おおおおおおおおおぞらに」
そして再び静かに戻る。夏希の手は静かに閉じられる。同時にピアノの音がホールから去っていく。観客が余韻に浸っているのも束の間、すぐに「COSMOS」を始める。さくらの腕が挙げられる。笠島はほとんど鍵盤を見ていない。本当にすごいと思っている。「この曲そんな難しないわ」といっていたけど、本当か?
この曲は高く、静かに始まる。宇宙という神秘的なテーマの歌詞で、曲がとても合っている。僕は指揮をよく見て歌い始める。身体がまた歌い出す。僕はこの曲が好きだ。ソプラノ、テノール、バスが美しいハーモニーを作り始める。「君は宇宙」という歌詞のあと、転調のようなものをする。この転調と極端な高音が、この合唱曲の難しさであり、楽しさでもある。僕の喉にもう限界はなかった。4E♭(ミのフラット)を出さなければならない。笠島のピアノの音が強くなる。アイツは腕が細い割に鍵盤を叩く力が強いから、良い音を出している。さくらの指揮が大きくなる。ソプラノはここでブレスを入れると決めた。息を吸う。
「光の声が空高く聞こえる」
出た。女子並みの声を今普通に出している。なにも違和感を感じない。ただ、僕の身体が歌うんだ。
そして最後は二番のラスサビの転調だ。さっきの音よりもう一つ半音高い4Eだ。
突如、足を大きな痛みが襲った。想定外のハプニングに僕は動揺を抑えきなかった。身体が突然重くなる。だがここで転んだら全員の思い出を汚すだろう。まずい。でも、僕は歌うのをやめなかった。しかし、足の痛みがそうはさせなかった。思うように高音が出せない。あと十秒くらいでラスサビの転調だ。だが僕の意思は強かった。姿勢を持ち直し、転調を歌おうとした。が、意思に反し、高音が出ない。裏返った声が裏返り、吐きそうになる。
僕は、大きめの声で、この曲の最高の場所の音を、外した。
【死亡】
もちろんみんなから非難された。同情の目もあった。僕は本当に申し訳なくなった。でもまだ足が痛い。とにかくすぐに家に帰って、母に病院に連れていってもらわないといけない。緊張して盛大に吊った。まだ筋肉がじんじん、びりびりする。脳が歌に夢中になりすぎていた。体を忘れていた。筋肉が痛い。歩けない。賞はもらえたけれど、さくらがもらった。歩けないから友里と帰れない。
結局朝のイメージトレーニングが一つも叶わず、鈴木と笠島とさくらに手伝ってもらって篠原駅までいくことになった。でも、僕が重いせいか二人とも歩みがおぼつかない。そんなとき、公衆電話を道中で発見したので、親に駅まで迎えにきてもらうよう頼む電話をしようということになった。道を挟んで反対だったので、信号を渡ろうとしたその時ー
どーん
トラックが突っ込んできた。そのまま電柱に衝突した。電柱が傾いた。トラックは横転する。タイヤが空回りしている。フロントガラスがひどいことになっている。見るも無惨なトラックはそっちのけで、笠島と鈴木とさくらを救助しなければならない。どこにいるのかわからない。笠島はさくらをかばうようにしてトラックにぶつかったようだが、なんとか二人が出てきた。笠島はなんともないようにしているが、かなりまずいのではないか?ひとまず笠島とさくらが生きていて安心した。しかし鈴木が出てこない。早く通報しなければ、と思ったころには府警や消防が駆けつけていた。近隣住民が通報したのだろう。もうだめかもしれない。背筋が凍っている。めまいがする。心臓が速い。友達が死ぬなんて信じられない。救急隊員が必死に捜索するが、それでも見つからない。
そして、諦めていたとき「ミシッ」と音がした。トラックが一人でに動き出す。気づけばトラックは宙に浮いていた。鈴木がトラックを持ち上げて出てきたのだ。みんなが揃って僕は嬉しかった。
【エピローグ:吉野は同窓会にいない】
これから十私が五年が経ち、みんなそれぞれのことをしていた。当時と同じメンバーで集まる。私が吉野がいないのに気づいたのは、写真を見返してからであった。いつもやかましかった坂田も、かんなも、一人暮らしを始めたようだ。鈴木と話していると、友里が来た。鈴木と友里の手の指に金色に光るものがあった。
鈴木はただ一言、こういった。
「ウチの名前は久石ヒロシになるんや!」
クラスじゅうからの大歓声!それを知っていた人も何人かいたようで、各々プレゼント云々を手渡していた。坂田も知っていたようだ。ヒロシに何か箱を渡した。あれは、陶器のコップかな?コップは実用性があってかつ記念品になるから、坂田にしては良いセレクトだ。いや、多分あれは手作りである。手作りの陶器は、暖かみがあって良い。高校で消えた夏希も来ていた。夏希は、筆か?おかしいだろ、プレゼントで筆って。
クラスの主催者の宇野がマイクで言った。
「二人とも、本当におめでとうな!!」
(合唱編(中学生時代)終わり 書道編(高校生時代)に続く)




