003:天正三年 三月中旬:実証
翌朝。
「山田様、起きてくださいませ」
声を掛けられ、次郎は重たい瞼をゆっくりと開いた。
まだ酒の残る頭でぼんやりと目を向けると――そこには、綾がちょこんと座っていた。
どうやら、朝早くから待ち構えていたらしい。
「本日の見分、私も同行いたします」
開口一番、綾はそう告げた。
「……え?」
寝ぼけた頭では、すぐには意味を飲み込めない。
その間にも綾は、煮沸しておいた飲み水の手配や、食事のこと、さらには同行する者の確認まで、矢継ぎ早に捲し立てていく。
その美しい声が、二日酔いの頭にはやけに大きく響いた。
「それから、外で喉が渇いた時のために、水は多めに持って参りましょう。それと昼餉は――」
「……うん、そうだね……」
「山田様?」
「……大丈夫、大丈夫」
生返事を繰り返しながら、次郎はぼんやりと思った。
――もう、あの恥ずかしがり屋の少女はいないのだな。
初めて会った頃、綾は人前に出ることすら恥ずかしがり、ただ小さな声で『よしなに』と告げるばかりだった。
それが今ではどうだ。
朝っぱらから次郎の世話を焼き、調査の段取りまで仕切ろうとしている。
人というものは、こうも短い間に変わるものなのか。
そんなことを考えながら、次郎がまた適当な相槌を打つと――
「気ば引き締めんかッ!!」
「はいっ!」
綾の一喝が飛んできた。
二日酔いの頭に、容赦なく突き刺さる。
「……はい、引き締めます」
次郎は頭を押さえながら、ようやく身を起こした。
そして、この日の調査に加わる二人の男が紹介された。
一人は、日に焼けた顔に実直そうな眼差しを宿した男。
「樺山権兵衛と申す」
もう一人が、その隣で静かに頭を下げる。
「弥助と申します」
同行する侍と足軽を綾から紹介される。次郎が頭を下げて挨拶すると、その言動に三人は困惑した様子を見せた。
こうして、四人と牛車での道行きが始まった。先頭を次郎が歩き、その後ろに綾、護衛役の侍、そして労働を担う足軽が続く。四人一組の一行である。
歩を進めながら、次郎はあれこれと思案を巡らせていた。この時代に急激な生活水準の向上をもたらせば、思わぬ弊害を生むのではないか――そんな推論が頭をよぎる。
いくつかの対策を考えていると、ふと視界にあるものが目に映った。
それを目にした途端、次郎は興奮を隠せず、思わず駆け出していた。
「山田様、いったい何事ですか?」
綾たちは驚きながらも、何があったのかと次郎の後を追っていった。
「やっぱり……」
青竹にも見える細い木を折り、その断面を指でなぞった次郎は、指先を舐めながら呟いた。
追いついてきた綾たちに、サトウキビ(甘蔗)が砂糖の原料になることを話すと、皆、目を丸くして驚いた。
この種子島に大量に自生しているサトウキビは、島民たちにとっては、いわばガムのようなものだった。
硬く繊維質なサトウキビは、そのまま飲み込むことはない。小さく切ったものを口に含み、しばらく噛みしめながら、じわじわと広がる甘みを味わう。甘みがなくなれば、残った繊維を吐き出す。島民たちにとって、サトウキビとはそういう食べ物だった。
道中では、綾たちとサトウキビについてあれこれ話しながら、周辺の地質も調べていく。
さらに、綿毛や籾殻、渋柿、蜜柑など、目についたものを見つけては、次々と回収していった。
気がつけば、牛車の荷台も採集した物で満載に近い。
そうして調査や採集を続けているうちに、いつしか日も西へ傾き始める。
「そろそろ帰るか」
日暮れの気配を感じた次郎たちは、集めたものを手に、家路へと戻っていった。
「父上! 甘蔗が! 甘蔗が!!」
屋敷の玄関先に織部の姿を見つけた綾は、手にした甘蔗を握りしめたまま、勢いよく駆け出した。
「父上、これを見てください!」
息を弾ませながら差し出された甘蔗を見て、織部は何事かと目を丸くする。
やがて綾から事の顛末を聞かされると、織部は言葉を失ったまま、その場に固まってしまった。
次郎はそんな織部を見て、にやりと笑う。
「織部様、話すよりも、実際に見ていただいた方が早いでしょう」
そう言うと、次郎は織部をそのまま台所へと誘った。
まずは採ってきた甘蔗を細かく刻み、煮沸して清めた手拭いを二本の棒に結び、力を込めて捻って絞り出す。
一度で終わりではない。
絞り終えたものを再び手拭いに包み、残った汁をさらに絞る。それを幾度か繰り返し、出来るだけ多くの汁を取り出していく。
集めた汁を鍋に移して火に掛ける。
ぐつぐつと煮立ち始めると、表面に浮かぶ灰汁を丁寧に掬い取った。
やがて汁は少しずつ水気を失い、濃く、とろりとしたものへ変わっていく。
次郎は頃合いを見計らうと、今度は新しい手拭いと椀を用意した。
「ここからが肝心です」
熱く煮えた汁を鍋から椀に被せた手拭いの上に落とし、また絞る。
すると、濃い褐色の液体が椀に溜まり、細かな粉末が手拭いに残った。
「こちらが糖蜜。そして、こちらが砂糖です」
次郎が示したものを、織部は食い入るように見つめる。
液体は糖蜜になり、粉末の方は細かな砂糖となっていた。
しかも、その砂糖は市場に出回っているものと比べて不純物が少ないためか、色も白に近い。口に含めば、甘さもひときわ強そうに見えた。
「この糖蜜は、牛馬の餌に混ぜてもよいでしょう。藁などに与えてやれば、家畜の栄養にもなります。上手く使えば、牛馬を強く育てられると思います」
次郎は出来上がった砂糖をほんの少し指先に取り、口に含んだ。
「……うん。これなら大丈夫だ」
味を確かめると、次郎は見守っていた者たちにも取り分けた小皿を差し出した。
「少しずつ、味を見てみてください」
それがいけなかった。
恐る恐る砂糖を口にした者たちの顔が、次々と驚きに変わっていく。
「甘い……!」
「なんじゃ、これは……!」
「こんな甘味が……!」
一人が声を上げれば、また一人が手を伸ばす。
たちまち台所は大騒ぎとなった。
「山田!! もっと作れ!」
「山田様! もっと、もっとです!」
織部と綾まで身を乗り出して迫ってくる。
「落ち着いてください。作り方を覚えれば、これからいくらでも作れますから」
次郎は二人を宥めながら、下女たちを集めた。
そして、甘蔗の汁を絞るところから、煮詰め方、灰汁の取り方、濾し分ける手順まで、一つひとつ実際に手を動かしながら教えていく。
もちろん、火加減や手拭いを清潔に保つことなど、細かな注意点も忘れない。
こうして屋敷の台所には、甘蔗から新たな甘味を生み出すための手順が、少しずつ根付いていった。
翌日には、回収しておいた綿毛と籾殻を五対五の割合で混ぜ合わせ、麻袋に詰めたクッションを六個作った。
さらに、防虫効果のある渋柿の汁を表面にたっぷりと塗り、それらを長方形に並べて、一枚の大きな布で包む。こうして、簡易的ながらも一応の布団が完成した。
しかし、寝心地を確かめるより先に、綾がその上をゴロゴロと転がり始めた。
「これは……なかなか!」
一方の織部は、布団のあちこちに手や肘を押し当て、身体の所々に力をかけながら、その弾力を確かめている。
二人の様子を眺めながら、次郎はひとまず成功したと判断した。
その後、権兵衛と弥助が呼び出され、昨日見つけた綿毛や籾殻、渋柿を大量に集めるよう命じられていた。
その光景を横目に、次郎は労働で汗をかいた者たちが飲めるよう、塩を水に溶かしていた。
生活改善は、それだけでは終わらない。
次郎はトイレにも手を入れた。
中でも最重要の課題となったのが、用を足した後に使う『紙』である。
幸いなことに、屋敷の蔵には仕立てに使っている大量の端切れが眠っていた。これならば使える。
次郎は、それらを細かく整理し、尻を拭うための布として再利用することにした。
用を足した後は、棚に置いた端切れを使い、用が済んだものは隅に設けた専用の箱へ入れる。
その箱は一日一度、夜になると下女が回収する。
集めた端切れは、庭に新たに設けた専用の釜へ灰とともに入れ、翌朝から火に掛けて煮沸する。
しばらく煮ていると、布から汚れが浮き上がってくるため、それを専用の柄杓ですくい取る。
十分に汚れを取り除いたところで火から下ろし、しっかりと冷ましてから、天日に干す。
こうして洗い清めた端切れは、再び使えるようになる。
次郎は予備も含め、二百枚ほどを用意した。
もっとも、この時代には『使い捨て』という考え方はもちろんのこと、ゴミを一か所に集めるという発想や、ましてや物を再利用するという考え方すら、今ほど当たり前ではない。
そのため、なぜ使用済みの布を専用の箱へ集めるのか、なぜわざわざ煮沸してまで再び使うのか――その必要性を理屈立てて説明するのには、次郎もかなり苦労した。
それでも、実際に使ってみれば家人の評判は上々だった。
皆が喜んでくれるのであれば、それでよい。
次郎はそう考え、細かな説明に頭を悩ませるよりも、まずはこの習慣を屋敷に根付かせることにした。それでも、少しずつ生活は変わっていった。
液体石鹸も作ることができた。
昨日、サイカチを見つけたことで材料が揃った。さらに椿油の搾りかすは、屋敷の納屋にあるのを見つけていた。
それらを灰と水と一緒に鍋へ入れ、火にかけてじっくりと煮詰めていく。かかった時間は火縄二本分。
やがて出来上がった液体石鹸は、泡立ちもよく、汚れもきれいに落ちる。しかも、ほんのりとした良い香りまで漂っていた。
これには女性たちが特に喜んだ。
香りに惹かれて使うようになったのだとしても、それをきっかけに衛生管理への意識が芽生えるなら、それでいい。
次郎はそう考えていた。
釜を増産するにつれて、その利用頻度も上がっていく。
しかし、下女たちが毎日の火起こしに苦労している姿を見かねた次郎は、ついに火付けの道具まで作ることにした。
竹筒と硬い樫の木を軽く削り、金剛砂を使って互いに擦り合わせる。そこへ苧麻と渋柿の汁から作ったOリングを嵌め込んで、圧気発火器を完成させた。
これで火起こしの苦労はなくなる。
生活の改善だけではない。
次郎自身も、この時代で生きていくために、読み書きを覚えようと『くずし字』の勉強を始めた。
空いた時間には算盤作りにも挑戦し、試行錯誤を繰り返す。
あれを作り、これを直し、また新しいものを考える。
そんな生活向上の日々を送っていた次郎のもとへ、ある日、織部がやって来た。
「山田。頼みがある」
いつになく真剣な表情を浮かべた織部は、次郎に告げた。
「主君に……会ってくれ」




