002:天正三年 三月中旬:不自由
次郎は己の境遇を嘆いていた
そこで待っていたのは、現代人の感覚からすれば不便という言葉では済まされぬ暮らしだった。
生水は飲めない。
湯気の立つ蒸し風呂はあるが、湯を張った風呂はない。
夜の灯りは心許なく、ぽっとん便所に紙がない。
布団もなく、横になれば虫に食われ、身体のあちこちが痒みに襲われる。
眠ろうとしても眠れない。
一つ片づけば、また一つ。
次から次へと不便が顔を出す。
枚挙に暇がないとは、まさにこのことであった。
それから数日。
織部と雑談を交わせるほどには、二人の仲も進んでいた。
ならば――。
次郎は、思い切って相談してみることにした。
「織部様。ひとつ、お願いがございます」
「なんじゃ?」
「生活を、少しばかり良くしたいのですが……よろしいでしょうか?」
織部は、ぽかんと次郎を見つめた。
学問の話ならば、これまでにも幾度となく聞いている。
しかし――『生活を良くする』という考えそのものが、織部には今ひとつ理解できなかった。
「生活を……良くする?」
「はい」
織部が固まっているのを見て、次郎は悟った。
これは好機だ。
忘れてしまわぬよう、木板を借り、墨を含ませた筆で必要なことを箇条書きにしていく。
飲み水の扱い。
多岐にわたる衛生管理。
夜間の灯り。
防虫を施した寝具。
その他、思いつく限りの改善案を書き連ねていく。
十を越えたところで――。
「待て、山田」
織部から待ったがかかった。
「まず、飲水とは何じゃ?」
「飲み水のことです」
「それなら厨にある水瓶の水であろう?」
「はい。ですが……あの水は、そのまま飲むには適しておりません」
「何?」
「あのまま飲めば、病の元となります」
長々と理屈を並べるより、実際に見せたほうが早い。
次郎と織部は、連れ立って台所へ向かった。
衛生管理という概念そのものが希薄な、この時代。
川や井戸の水を汲み、そのまま常温で保存して飲むことも珍しくない。
現代の知識を持つ次郎からすれば、腹を壊す危険を身近に抱えた暮らしに他ならなかった。
「百……百一……百二……百三……」
台所に、次郎の奇声が響く。
一定の間隔で、ただ淡々と数を刻み続ける次郎の不可解な言動に、織部と下女たちも怪訝な顔を浮かべている。
彼らの世には『一秒』という時間を均一に区切る概念が実在しないからだ。
だが、次郎は気にしない。
あらかじめ借りて火をつけておいた火縄の燃え具合と、鍋の水面をじっと見つめている。
「二百九十九……三百!」
火縄を確認する。
「少しゆっくりだったが、五分は経っただろう」
次郎は二本並べておいた火縄のうち、片方の火を消した。
そして、まだ火をつけていないもう一本の火縄を同じ長さに切る。
「織部様。この煮立った湯ならば、生水よりは病を遠ざけられます」
織部は眉間に深い皺を寄せた。
「その細長い縄で、時が分かるというのか?」
「正確な時を刻む機械ではありません。ですが、火縄の燃える速さを基本にすれば、おおよその時間は分かります」
次郎は、時計を知らないであろう織部に機械と言い換え。火縄を使った簡易的な時間の測り方を説明した。
さらに小口の水瓶を五つほど用意させ、それぞれ時間をずらして水を沸かすことを提案した。
一度に大量の水を煮沸するのではなく、必要な分を順番に沸かして冷やせば、常に新しい水を使える。
「病を煮殺した水でも、木蓋をしておけばいつまでも安全、というわけではありません」
次郎は水瓶を眺めながら、そう付け加えた。
「この保存方法で飲める日限は、一日です」
煮沸によって水の中に潜む病のもとを減らすことはできる。されど、その後に常温で置いておけば、時間とともに再び汚れる。
だからこそ、水は一度に作り置きするのではなく、使う分だけ順に沸かす。
それが、この屋敷で水を安全に飲むための、次郎なりの現実的な方法であった。
そして、汗をかいた際の塩分補給についての重要性も話した。
次郎は鍋底へ手を当て、湯が冷めるのを待つ。
衛生管理がなぜ必要なのか。
なぜ水をそのまま飲んではいけないのか。
現代では当たり前となっていることを、この時代の人々に理解してもらう。
それだけでも、一苦労だった。
やがて湯が冷める。
次郎が差し出した水を、織部が恐る恐る口へ運んだ。
そして――。
「美味い!!」
ガターンッ!
突然の咆哮に、背後で大きな音が響いた。
次郎が振り返る。
そこには、普段から侍女たちの陰に隠れるようにして、次郎の様子を盗み見ていた少女がいた。
その少女――『綾』は、驚きのあまり尻餅をついていた。
十歳。
織部が晩年に授かった愛娘であり、目に入れても痛くないほど溺愛している一人娘だった。
初日に屋敷の者たちを紹介された際、本来ならば綾とも挨拶を交わすはずだった。
ところが、綾は恥ずかしがって姿を見せない。
障子の向こうから、小さな声で、
「……よしなに」
と、それだけ告げた少女である。
その思春期真っ盛りの綾は今、着物がはだけていることも気にせず、真っ赤になった顔を隠すように侍女たちの後ろへ、またしても逃げ込んでいた。
「山田!! なんじゃ、これは!」
織部は、まるで子供のように目を輝かせている。
「甘い! 甘いぞ! まるで甘露ではないか!」
当時、砂糖は庶民が容易く口にできるようなものではない。
甘味そのものが希少であり、舌の鋭敏化による味覚は現代人の何倍もあったとされ、僅かな甘さにも敏感だった。
少しばかり驚くだろうとは、次郎も思っていた。
だが――。
「もう一杯じゃ!」
予想を遥かに越える織部の食いつきに、次郎は苦笑するしかなかった。
そんな織部が、今度は綾を手招きする。
「綾、こちらへ来い」
「……はい」
おずおずと近づいてきた綾に、織部は水を飲ませた。
綾の目が、ぱっと見開かれる。
「……!」
そして次の瞬間。
「父上! 父上!」
ぴょん、ぴょん。
少女は嬉しそうにその場で跳ねた。
その様子を、次郎は呆気に取られながら眺めていた。
やがて、周囲で興味津々にこちらを見つめていた下女たちにも、次郎はお椀へ水を取り分けて渡していく。
一口。
二口。
そのたびに顔が変わる。
そして――。
「まあ……!」
「これは……!」
「もっと、いただけませぬか?」
静かだった台所は、たちまち女たちの声で満たされた。
次郎はその騒ぎを眺めながら、頭を掻く。
どうやら、たった一杯の水でさえ、この時代では大騒ぎになるらしい。
生活を少し良くする。
ただ、それだけのつもりだった。
しかし、この日を境に、次郎の屋敷暮らしは少しずつ――確実に変わり始めていくことになる。
その夜、次郎は織部に、近辺の調査に出る許しを願い出た。
理由はもちろん、これからの生活を少しでも良くするためである。必要となるものを採り、島の地質や鉱石を調べ、使えそうなものと、そうでないものを見極めたい。
出来ることなら、この島を隅々まで歩き回り、何が出来て、何が出来ないのかを一つずつ確かめたいところだった。
されど、今の次郎はあくまで客分の身である。
間者の疑いが完全に晴れたとも言い難い。いくら織部が目を掛けてくれているとはいえ、勝手な振る舞いをすれば、それが命取りになりかねない。
織部と過ごす穏やかな日々の中では、つい忘れそうになる。
だが、ここは戦国の世。
昨日まで笑っていた者が、今日には首を落とされてもおかしくない。ほんの些細な言動が、己の命を奪う刃へと変わる――そのことを、次郎は決して忘れてはいなかった。
まずは信頼を積み重ねること。
そして、自分を助けてくれた織部やこの家の者たちへ、受けた恩を少しずつでも返していくこと。
そんなことを考えながら、次郎が物思いに沈んでいると、織部が徳利をすっと差し出してきた。
「まぁ、飲め」
「……はい」
こうして、その夜は更けていった。




