001:天正三年 三月上旬:戦国時代
──科学とは、合理の積み重ねである。
その男、山田次郎は、自らの人生をそう定義して生きてきた。
国立大学で地球科学を教える教授。
地質、鉱物、火山――何十億年もの歳月を刻み続けてきた地球の歴史を、膨大なデータと数字から読み解き、ひとつひとつの現象に理屈を与える。それが、彼の本職だった。
だが、酷使され続けた人間の肉体は、何十億年もの時間を耐え抜いてきた地球の地層ほど、頑強にはできていない。
過労による心不全。
大学の実験室で突然意識を失い、次に目を覚ましたときに見た、集中治療室の白い天井。
それを最後に、彼の人生を刻んでいた時計は、完全に止まった――はずだった。
不快な塩水の味が、口の中いっぱいに広がった。
「……ん、んん……」
次郎は、鉛のように重い瞼をゆっくりと開いた。
霞む視界。
途切れ途切れの意識。
まだ完全には覚醒していない頭を無理やり動かしながら、次郎はまず、自分が置かれている状況を確認し始めた。
靴がない。
裸足だ。
そして、身に纏っているのは、薄緑色の患者衣。病院で着ていた浴衣型の一枚だけだった。
頬に触れるのは、ひんやりとした砂。
耳元には――
ザバーン……ザバーン……
一定の間隔で寄せては返す、波の音。
潮の匂いを含んだ風が、頬を撫でていく。
次郎はゆっくりと上体を起こし、空を見上げた。
眩しい。
五月の太陽が、目を刺すような光を容赦なく降り注いでいる。
雲ひとつない空は、どこまでも深く、突き抜けるような青だった。
「……地質の組成は、酸性の珪砂。火山帯特有の空気の揺らぎ……」
無意識に、目の前の環境を分析していた。
砂の粒。
海岸線。
空気。
太陽の位置。
これまで培ってきた知識が、反射的に状況を読み解こうとする。
だが――
「……あぁ、駄目だ。データが少なすぎて、現在地が分からない」
いくら考えても、決定的な情報が足りない。
そもそも、自分はなぜここにいる?
病院にいたはずだ。
集中治療室で、生命維持装置に繋がれていたはずではなかったか。
『私は……入院していた、よな』
患者衣の袖を指先で擦りながら、次郎は誰もいない砂浜で呟いた。
返事はない。
ただ、遠くから寄せてくる波だけが、何事もなかったかのように、
ザバーン……。
静かな海鳴りを響かせていた。
記憶の底を手繰り寄せる。
自分の名は、山田次郎。
年齢は――。
職業は――。
途切れ途切れではあるものの、ひとつ、またひとつと、失われていた記憶が浮かび上がってくる。
意識はいまだ霧の中にあった。頭の芯が重く、思考も思うようにまとまらない。それでも次郎は、ふらつく身体に力を込め、重い上半身をゆっくりと起こした。
「……誰か、いないのか」
助けを求めようと周囲を見渡す。
だが、見渡す限り人影はない。
ただ広がる砂浜と海。寄せては返す波の音だけが、静かに耳へ届いてくる。
自分はいったい、どこにいるのか。
なぜ、ここにいるのか。
どうして病院ではなく、この浜辺で目を覚ましたのか。
状況を整理しようと頭を巡らせるものの、導き出される答えは、どれもこれも不可解なものばかりだった。
「……考えても、分からん」
次郎は、ひとまず思考を放棄した。
浜辺に人がいないのであれば、まずは人のいる場所を探すしかない。
道を見つけ、その道沿いに歩いていけばいい。いずれ車の一台くらいは通るだろう。そうすれば、助けを求められる。
そんな、今となっては何の根拠もない考えを頼りに、次郎は歩き始めた。
そして――しばらくして。
次郎は、ぴたりと足を止めた。
「……なんだ、これは」
目の前に広がっていたのは、まるで古い絵巻から抜け出してきたような光景だった。
茅葺きの屋根。
土壁の粗末な家。
朽ちかけた小屋が肩を寄せ合うように並ぶ、小さな町。
そこには確かに人の営みがあった。
だが――何かがおかしい。
説明のつかない違和感が、次郎の全身をざわつかせる。
人はいる。
確かに、人はいるのだ。
しかし、その姿が異様だった。
まるで時代劇の中から、そのまま抜け出してきたかのような身なり。
いや、それよりも――。
物乞いとしか思えない者たちが、そこかしこにいる。
衣の隙間からは肋骨が浮き出ている。
身体は痩せ細り、明らかに栄養が足りていない。
その貧相な身体を覆っているのは、ぶかぶかに余った麻の布切れだけ。
肌と骨ばかりが目立つ姿で、彼らは何事もなかったかのように町を行き交っている。
次郎は、ただ呆然と立ち尽くした。
目の前にある光景が、現実のものとして受け入れられない。
「……ここは、一体……」
現代の知識では説明のつかない光景。
その異様さを前に、次郎の思考は、再び深い霧の中へ沈んでいった。
「おいッ!! そこなる怪しげな生霊!! 止まらんかッ!!」
背後からの声に振り返ると、頭は丁髷、腰に刀らしき鉄の棒。時代劇そのままの侍が迫って来ていた。
鋭い殺気とともに、長槍を持った足軽に見える男たちが次郎を包囲する。
言葉の響きは、酷く濁った九州の訛り──薩摩弁と思える。
次郎は、手を上げて膝をつき、無言のまま目線を下げて降伏の意思を示した。
生まれて初めて剥き出しの殺気に当てられ、ここは現代ではないと確信せざるを得なかった。
今はただ、現状把握が急務だと、言葉を無駄に使って異物としてこの場で殺されるのは合理的ではない。
彼は、ただ静かに、連行されるがままに町の中心部にある番所へと足を運んだ。
薄暗い取り調べ室。
目の前に座る地元の奉行役人は、縄で縛られた次郎を不審者であり、あるいは他国の間者と疑わんばかりに睨みつけ、威圧的に木の机をガツンと叩いた。
「姓名を名乗れ。何れの国から、如何なる企みを持ってこの島へ密航ったッ!。白状せねば、その首たたき落とすぞッ!」
長槍の刃先が喉元にピチッと突きつけられる中、次郎は冷や汗を流しながら、必死に地を這う姿勢で言葉を絞り出した。
「お、お侍様、私の名前は山田次郎と申します。……その、遥か先の、未来から参りました!」
「み、みらい……? 貴様ぁ、何をわけの分からぬ戯言を──」
役人が激怒して刀に手をかけ、鯉口を切る。それを見た次郎は、慌てて言い直して畳に額を擦り付けた。
「あ、いや、来世です! 後世とも言います! お許しください、私は怪しい者ではございません!」
「貴様ぁ、ただの瘋癲(狂人)か?」
頭を下げたままでも伝わる役人の殺気が高まるのを察知した次郎は、思考より先に口が動いた。
「本当です! いまここで、私のいた世界の学問で証明できます! この服の布地を見てください、この世の織物ではないはずです!」
役人が不審そうに次郎の患者衣をザラザラと触り、その異常な織り目に動きを止める。殺気はわずかに霧散したが、次郎の冷や汗は止まらない。
「……申してみよ」
「は、はい! 地図、いや地形の絵図と、数の学問!記号を描こうと思います!」
「え、絵図……? 貴様に高級な紙を使わす訳にはいかん」
「あ、で、では、そこにある炭と、その杉の木の板で描きます!」
時代や言葉の壁、そして命の値段が軽い古い社会なのだと現実を再認識しながら、次郎の右手は炭を握り、杉の木の上を滑らせた。
サラサラサラ……
ここは種子島だと役人から聞いていた次郎は、己の頭脳に刻まれた地学データから、大まかな種子島と九州を描いた。
さらに、木札に(0, 1, 2, 3... )という10個のアラビア数字を並べ、この時代の仕様であろう漢数字を書き、横に(3)(30)(300)と円(0)を書き足し、桁を右へスライドさせてみせた。
「こ、これ、これは……ッ!?」
『拾』や『百』の漢字を使わずに、円(0)の記号を並べるだけで、数の桁が無限に連なっていくとの認識に役人は驚愕する。
役人は木札を両手で掴み、小刻みに震えていた。
次郎は、なぜ地図と数字かと思ったが、咄嗟に出た学問のプレゼンは間違っていなかったと、地を這ったまま安堵の息を漏らした。
「貴様の詮議、お上へお預けとする!」
役人は配下の足軽に鋭く耳打ちし、厳重な宣言を下した。
その後、一時的に入れられた牢屋で、患者衣を没収されて不潔な布1枚で過ごしながら、次郎は思案していた。
なぜ戦国時代に飛ばされたのか、現代人に取っては暗黒時代を生き抜けるのか。負のスパイラルに落ちつつも、過労の身体は深い眠りへと落ちた。
「出ろッ!」
翌朝、足軽の怒鳴り声に、次郎は飛び起きた。
まだ夢と現の境も定かではない。重い身体を引きずるようにして牢を出ると、ほどなくして広い屋敷へと連れていかれた。
「山田次郎、これへ」
上座から声がした。
そこに現れたのは、白髪の混じった髪と、鋭い眼光を持つ老人だった。
「貴様ッ! 御家老様の御前であるぞ! 平伏せよ!」
役人の怒声が飛ぶ。
「ははぁー」
寝起きで未だ意識の定まらぬ次郎は、反射的に畳へ額を擦りつけた。
その姿を見た老人の口元が、ほんの僅かに上がる。
部屋にいるのは、次郎と老人の二人だけだった。
「山田よ。貴様が描いた絵図と、あの数の記号……一体、どこの知恵じゃ?」
老人は、穏やかな笑みを浮かべていた。
その顔つきだけを見れば、何の警戒も抱かぬほどの柔和な笑みである。
だが――その眼だけは、少しも笑っていなかった。
鋭く、静かな眼差しが、まるで次郎の胸の内まで見透かそうとするかのように向けられている。
その笑顔と眼差しの食い違いが、かえって次郎には恐ろしかった。
男の名は、西村時貫。
通称、織部丞。
「丞」とは官途名である。
今より三十二年前――。
この種子島に漂着したポルトガル船に乗っていた明人と、砂の上に文字を書き、漢文による筆談を交わした男。
未知なる異国の道具に臆することなく、その利便を見抜き、日本で初めて「鉄砲」を買い付けた人物。
種子島家の家老。
それが、この西村時貫。織部丞であった。
未知を前にしても怯まず、使えるものならば取り入れる。
その度量を持つ織部との邂逅は、次郎にとってまさに僥倖だった。
次郎は、正直に話すことにした。
自分は遥か未来の世で学問を生業としていた、ただの一人の人間であること。
病に倒れ、死を迎えようとしていたこと。
そして、気がつけば、この時代の浜辺に立っていたこと。
話は長くなった。
それでも織部は遮ることなく、次郎の言葉に耳を傾け続けた。
気がつけば、陽は西へ傾き、部屋の中にも夕暮れの色が差し込んでいた。
「ふむ……なんとも奇妙な話じゃ」
織部は顎に手を当て、しばし考え込む。
「じゃが――」
その眼差しが、次郎を射抜いた。
「あの数の理は本物じゃ」
次郎は黙って織部を見返した。
「山田よ。そなたの知識は、並の者には扱いきれぬ。されど、それをみだりに世へ出すわけにもいかぬ」
しばしの沈黙。
やがて織部は、静かに告げた。
「儂の命により、そなたを種子島家の客分とする。されど、勝手な外出は控えよ」
「ははぁー」
次郎は深々と頭を下げた。
畳に額をつけたまま、胸を撫で下ろす。
ひとまず――最悪の事態は免れた。
この時代へ放り出された男にとって、これ以上ないほど上々の着地点だった。
翌日から、次郎は織部の屋敷で暮らすことになった。
※当時の薩摩弁は外国語に等しいため、簡易薩摩弁or標準語で進めて参ります※




