(九) 秩父雪山狸譚
化かしの闇に踏み込めば、学問も笑いに呑まれる。
丹後国の件から数ヶ月が過ぎ、季節は晩秋から冬へと移ろっていた。
空気は鋭く冷たく、木々の葉はすべて落ち、枝は白い霜に覆われ始めていた。
民俗学者の佐久間妖道とその助手、助川清彦は、武蔵国秩父郡の山奥へと足を運んでいた。
列車の車窓から見える風景は、灰色の空の下で静かに凍りつくように広がっている。
清彦は、禿げ上がった頭頂部に窓ガラスの反射を映しながら、興奮を抑えきれずに言った。
「先生、しばらくその温泉地に滞在しましょうよ。僕がその検体となって、効果のほどを確かめますから。」
妖道は苦笑を浮かべ、眼鏡の奥から清彦をちらりと見た。
「話はちゃんと聞いたかい? その場所に辿り着けるかすら分からないのだよ。」
「僕等にかかれば、そんな場所。必ず辿り着きますとも。」
清彦は胸を叩き、自信たっぷりに笑った。
妖道は、清彦がこの旅を単なる湯治目的だと勘違いしていることに気づいていたが、
わざわざ訂正する気は起きなかった。面倒くさいのだ。
妖道の本当の目的は温泉などではなかった。
狸――江戸の時代から明治にかけて、秩父の村々で囁かれる化け狸の伝説。
それを探るためだった。
狸に化かされ、道端や藁の上で目を覚ますと、手にしていた土産物が消えているという噂。
妖道は、その謎を解き明かすべく、修験者のみが足を踏み入れるという秘境の谷を目指していた。
秩父の山は、冬の入り口で既に雪に覆われていた。
二人は村で冬山の装備を調え、木綿の着物を重ね、綿入れ半纏をまとい、その上に西洋渡来の外套を羽織った。
脚には脚絆を巻き、わらじを履き、手には竹の杖を携え、頭には手ぬぐいを巻いていた。
和と洋が入り混じったその姿は、近代の学問を纏いながら、古い山の霊気に溶け込むようだった。
吹きすさぶ寒風の中、雪を踏みしめて進む足音が、静かな山道に響く。
遠くで、風が木々を揺らす音が、まるで狸の嘲笑のように聞こえた。
雪山に入って二時間が過ぎた。
目指す谷はまだ見えない。三時間が経つ頃、清彦が息を切らしながら口を開いた。
「先生。おかしくないですか、まだ着かないなんて。」
「確かに、おかしいな。一本道だ、迷うはずもないのに。」
妖道は眉を寄せ、引き返そうかと考え始めた。
その時、視界に雪のかまくらが現れた。自然にできたものか、それとも誰かが作ったのか。
白く丸いその姿は、雪の中で不気味に佇んでいた。
「少し休もうじゃないか。」
妖道が提案し、二人は中に入った。
疲労が一気に襲い、強い眠気に包まれた。瞼が重く、抵抗する間もなく、眠りに落ちた。
…誰かが呼ぶ声がする。
「おい。大丈夫か。」
目を開けると、夜は明け、雪は止んでいた。声の主は修験者だった。
灰色の法衣を纏い、厳しい山の生活を刻んだ顔が、二人を心配げに見下ろしていた。
「その方たち、大丈夫か。」
二人はかまくらから這い出た。
妖道は周囲を見て息を呑んだ。かまくらの周りを、ぐるぐると幾重にも回った足跡が残されていた。
そして、間隔を置いて小さく、獣のような跡。
しかも、手にしていた土産物――村で買った干し柿の包みが、消えていた。
修験者が笑った。
「狸に化かされおったな。体が冷えておろうから、知り合いのマタギの小屋まで案内する。」
小屋は山の奥にあり、そこにはマタギが仕留めた狸の死骸が置かれていた。
妖道はそれを調べた。腹が膨らみ、発酵したような臭いがした。
胸を押すと、口からアルコールの強いガスが噴き出した。
あの時、かまくらの中に漂っていた臭い――それだった。
マタギが説明した。
「狸はアルコールのガスを嗅がせて人を酩酊させるんだ。昔からそうさ。」
妖道は頷いた。
江戸の頃、日本は小氷河期のような極寒の冬を迎えていた。
人間ですら、寒さで命を落とす者が多かった時代。山の獣たちは、どうやって生き延びたのか。
狸は、腸内で穀物を発酵させ、アルコールを蓄え、その熱で冬を越す特性を持っていた。
自動醸造症候群に似たものだ。
秋から冬の初頭、体内で生成されたアルコールが体温で気化し、ガスを発生させる。
一匹ではなく、十数匹の群れが集団で放出すれば、人を酔わせるのは容易い。
空気の滞る場所なら、大人でも――
そうして、食べ物を持った人間を狙い、酩酊させて奪う。それを「狸に化かされた」と呼んだのだ。
この山には、そんな古い血統の狸がまだ棲んでいる。
清彦はマタギに「ハゲ温泉」の場所を尋ねたが、そんなものはないと返された。
「狸が人を騙すために広めた噂じゃねえか。」
修験者がそう言って笑った。
二人は小屋を後にした。山道を下る途中、妖道は背後に視線を感じた。
振り返ると、雪の影に小さな影がいくつも。狸の群れか――風が再び吹き、嘲笑のような音を響かせた。
清彦の頭頂部は、噂に踊らされただけで依然として禿げたままである。
だが、妖道の心に残ったのは、狸の息吹――古い冬の闇が、現代の光を嘲るような、冷たい恐怖だった。
山は静かに、二人の足跡を呑み込んだ。
遠くで、風音が笑う。狸の声か、それとも…。
読んで頂き有り難う御座います。




