(十) 宮川人柱記
人柱は建物を守るものか、それとも人の魂を呪うものか。
雪に閉ざされた飛騨の山道を、佐久間妖道は助手とともに進んでいた。
冷たい風が頰を切り、積もった雪が足元で軋む音が、静かな闇に響く。
宮川沿いの集落に近づくと、どこからともなく味噌の香ばしい匂いが漂ってきた。
それは、凍てついた体を優しく溶かすような、懐かしい温もりだった。
村の庄屋の屋敷に案内され、妖道の前に置かれたのは、大きな朴の葉だった。
葉の上では甘い味噌がじりじりと焼け、刻んだ葱と茸が香りを添えていた。
地酒を一口含むと、冷えた体に柔らかな甘みが広がり、味噌の濃厚さをすっと洗い流す。
妖道は思わず笑みをこぼし、この土地の人々の暮らしを、舌の上で味わうような心地に浸った。
それを邪魔するように、助手の助川清彦がささやいた。
「奥の方に小さいながら、隠れた温泉があるそうですよ。ハゲにきくかもしれませんよ、先生。」
清彦は、見事に禿げ上がった頭頂部を、手でなでながら言った。
妖道の興が、一瞬で冷めた。
「本当に君は、女とハゲにしか興味ないね。せっかくの料理が台無しだよ。」
「ほら、また言った。ハゲは否定しませんが、女に興味って、あのイタコの事を何度持ち出すんですか。」
庄屋が、穏やかに口を挟んだ。
「まぁまぁ。料理も酒もいくらでもありますから。そうだ、妖道先生は民俗学の先生だとか。
我々の先祖について、少し見て貰いたい記録があるんですよ。」
妖道の目が輝いた。
「ほう。それはまた、どんな記録で?」
庄屋は、古びた巻物を手渡した。
「これは私の三代前の吉兵衛の記録でしてね、人柱について書かれているのですよ。」
「人柱とは面白い。宮川ですかな?」
「いえ、それが、少し、よくきく人柱とは話が違うようで…。」
妖道は巻物を広げ、蝋燭の灯りで読み始めた。そこに記されたのは、闇に潜むような、忌まわしい物語だった。
明和二年、高山陣屋は飛騨国吉城郡高山町にありて、白川村や下呂村を始めとする複数の村を管轄していた。
宮川のほとりに位置するその陣屋に、大原亀五郎が代官として赴任した。
初めは穏やかな顔を見せていたが、ほどなくその本性が露わになった。
「一条金」と呼ばれる資金を村々から借り入れ、総額六千両以上を集めたが、返還せず。献納を強制し、
父・大原彦四郎とともに年貢率を引き上げ、検地を強行した。
農民たちは飢えに苦しみ、家族を失い、村は死の影に覆われた。
近隣の村々が集まり、話し合いの末、一揆を決意した。だが、清見村の庄屋・吉兵衛は異を唱えた。
「この一揆、おそらく、たくさんの血が流れ、たくさんの命が失われる。それをやりかねないほどに、代官は愚かである」と。
清見村から高山陣屋まで、二里半の距離。
そこを、代官の悪行で飢えて亡くなっていく者たちの亡骸を、柱にくくりつけて並べる。
人柱として、物言わぬ抵抗で、相手を屈服させるのだ。
初めは、村の端に一本の柱が立った。飢えで瘦せ細った農夫の体が、縄で縛られ、雪に晒されていた。
目は虚ろに開き、唇は乾いて裂け、風が吹くたび、かすかな呻きが漏れるようだった。
村人たちは恐れをなしたが、吉兵衛の言葉に動かされ、次々と柱を増やしていった。
死者の数は日ごとに膨れ上がり、道は白い雪の下に、黒い影を落とすようになった。
二ヶ月後、その人柱の列は宮川まで到達した。
数百の亡骸が、道を埋め尽くす。夜になると、柱から滴る血が凍りつき、月光に赤く輝く。
代官・大原亀五郎は、陣屋の窓からその光景を覗き、震え上がった。
亡者たちの無言の視線が、彼の魂を貫いた。
やがて、この異様な訴えが幕府に届き、寛政元年、大原は流罪となった。
だが、人柱の呪いは残った。
宮川の橋が建造された際、史書には「数百体の人柱が埋められた」と記されたが、
それは真実を隠すための方便だったのかもしれない。
真の人柱は、道に並ぶ亡骸たち——
彼らの無言の抵抗が永遠にこの土地の人間の体に流れている。
妖道は巻物を閉じ、息を吐いた。
屋敷の外では、雪が静かに降り積もり、宮川の流れが遠くに聞こえる。
ふと、窓辺に影が揺れた気がした。亡骸の列が、闇の中で再び動き出すような。
「これはおもしろい。もしかしたら、人柱とはこの日本の文化において二種類あったのかもしれませんなぁ。
この代官、清見の吉兵衛側が記録を残しているとは思わなかったのだろう。
自分の悪行が、人柱として天下に知らしめられた事実を…。」
庄屋は微笑んだが、その目はどこか冷たく、妖道の背筋に寒気が走った。
ここでこうして料理と酒を馳走になったうえに、人柱の解決の糸口を手に入れるとは、
これも清見の吉兵衛のお導きかもしれない。
だが、妖道は知らなかった。その夜、雪の降る中、屋敷の外に、一本の柱が立っていたことを。
縄で縛られた影が、静かに彼を待っていることを。
その影が、果たして亡者なのか、生者なのか——妖道には、もう分からなかった。
読んで頂き有り難う御座います。




