(十一) 孫四郎と白狐の嫁
白い影に囚われた男の、終わらぬ狐憑き。
これは佐久間妖道が42才。つまり助手の助川清彦と出会う少し前の話である。
明治三十三年、三月。
新聞の一面が、世間を騒がせていた。
「狐憑きの狂人あらわる」との大見出しの下、狐に騙され、実の母を殺めた男の事件が、詳細に報じられていた。
記事は、羽後国の辺鄙な集落で起きた惨劇を描き、男が白い狐の幻に囚われ、母親に鉈を振り下ろしたと語っていた。
佐久間妖道は、その記事を目にして眉をひそめた。
妖怪や憑き物に詳しい彼にとって、白昼堂々の狐憑きなど、珍しいものだった。
好奇心と、どこか不気味な予感に駆られ、妖道は羽後国へと足を運んだ。
雪解けの山道を進む中、冷たい風が木々の間を抜け、遠くで狐の鳴き声が響くように感じられた。
羽後国の小沢田集落は、深い山々に囲まれた小さな村だった。
そこに、田子衛門とツルという夫婦が暮らしていた。
夫婦には四人の子がおり、末っ子の孫四郎は、兄たちが家を出た後に生まれたため、兄たちの顔を知らずに育った。
田子衛門は元々マタギとして知られていたが、ある日、熊に襲われて足を負傷して以来、酒に溺れるようになった。
酒乱の気質が露わになり、訳もなく孫四郎を殴る日々が続いた。
孫四郎は、そんな父の苛烈さに耐えながら、山に入って山菜を採り、両親を養っていた。
だが、獣を獲らない息子を、田子衛門は「マタギの恥さらし」と罵った。
ある日、田子衛門は山中で、孫四郎が白い狐と戯れ、山菜を分け合っている姿を目撃した。
狐など、ただの害獣。
田子衛門は家近くに罠を仕掛け、翌朝、白狐を捕らえた。
孫四郎は罠にかかった狐を見て、慌てて外した。狐の片足は傷つき、不自由になっていたが、孫四郎はそれを逃がした。
その行為に激昂した田子衛門は、薪を手に孫四郎を殴りつけた。
耐えかねた孫四郎は薪を奪い取り、逆に父を容赦なく打ち据えた。
血に染まった薪の下で、田子衛門は息絶えた。
ツルは黙って夫の死体を穴に埋め、秘密に封じた。
母と息子の二人暮らしが始まった。やがて、孫四郎は山で足をくじいた娘を助け、彼女を家に連れ帰った。
娘の足は完治しなかったが、彼女は孫四郎の妻となり、三人で穏やかな日々を送った。
だが、娘に子ができぬことを、ツルがただ一度、ため息混じりに嘆いた。
それが、娘の心にひびを入れた。
娘は孫四郎に問うた。
「私とお母さん、どっちが大事?」
孫四郎は即答した。
「お前に決まってるだろ。お前は白狐の化身だ。子供の頃から俺の仲間で、わざわざ狐の姿を捨てて来てくれたんだろ。」
娘は愕然とした。
夫は狐に騙され憑かれている、と。――彼女は家を飛び出した。
明治三十三年、三月。
孫四郎は、妻が追い出されたと勘違いし、母親のツルを鉈で襲った。
悲鳴に駆けつけた村人たちが孫四郎を押さえ、ツルは半死半生の体で訴えた。
「私は死ぬけど、息子は悪くない…。」
家の周りには、狐の足跡が山に向かって続いていた。
孫四郎は「白狐を、俺の嫁の白狐を…」と叫びながら山へ向かおうとしたが、拘束された。
ツルは程なく息を引き取り、孫四郎は狂人として片付けられた。
数日後、孫四郎はただの狂人として釈放された。
妖道は彼に会い、話を聞いた。
孫四郎は穏やかで、異常など見当たらなかった。
ただ、妻の姿が忽然と消えたことが、謎を深めていた。
妖道は妻を探し当て、隣町で彼女を見つけ出した。誰にも口外しないと約束し、真相を尋ねた。
彼女は語った。
「私は前の嫁ぎ先で、石女と蔑まれ、姑に毎日責められました。
とうとう離縁され、家を出て雪山を彷徨っていると、足を滑らせて怪我をしたんです。
そこで孫四郎さんに救われました。彼は『お前、無事だったんだな。戻ってきてくれたんだな』と言うので、
つい『はい』と答えてしまった…。」
幸せな数年が過ぎたが、ツルが子ができぬことを口にした瞬間、過去の不安が蘇った。
彼女は孫四郎に問うた。
「私とお母さん、どっちが大事?」
彼は「お前に決まってるだろ」と答え、嬉しかった。
だが、次に彼は鉈を研ぎ始めた。
「証拠を見せてやる。あの時、お前を痛い目に遭わせた父親も、俺が薪で殴り殺したんだ。
お前は白い美しい狐の化身だろ。わざわざ狐の姿を捨てて俺のところに来た。
そんなお前を俺が捨てるわけない。だから、すぐに母親を殺して、お前に見せてやるよ。」
彼女は震えた。
この男は正気じゃない。狐に憑かれている、と。逃げ帰ったのだ。
妖道はすべてを理解した。
孫四郎の狂気は、狐の幻影ではなく、歪んだ愛と妄想の産物だった。
だが、山道を戻る妖道の背後で、かすかな狐の鳴き声が聞こえた。
白い影が、木々の陰で揺れているような…。狐憑きは、決して終わらないのかもしれない。
後日、村人たちは雪の上に白狐の姿と、山へと続く足跡を見たという。
だが、孫四郎の妻は人間であり、狐ではなかった。
真実は闇に沈み、記事はただ「狐憑きの狂人」と記したまま、
世間の記憶に刻まれていった。
読んで頂き有り難う御座います。




