(十二)鱗の娘
掛け軸が息づくとき、怪異は再び現れる。
1912年、大正元年。
明治の残り香がまだ街に漂う頃、武蔵国埼玉郡馬込村へと、民俗学者の佐久間妖道のもとに一通の手紙が届いた。
差出人は三浦義嗣と名乗る老農。村の長者と呼ばれる人物で、齢八十を越え、子孫もなく、家系が途絶えようとしている。
だからこそ、古くから伝わる一つの物語と、それにまつわる品を、妖道に託したいという。
馬込村はまだ近代の波から遠かった。
電柱もガス管もなく、田畑と雑木林がゆるやかな丘陵に沿って広がるばかり。
農家の煙突から立ちのぼる炊煙が、唯一の時間の目印だった。
助手の助川清彦は、このところ頭髪の薄さに悩み、道すがら出会う村人に、禿げ上がった頭頂を手のひらで撫でながら
「このあたりに髪の生える温泉はありませんか」と尋ねて回った。
そのため村人たちは我々を旅人と勘違いしたらしく、「ここには何もない、早く出て行かないと、日が暮れる」と
親切に忠告してくれた。
長者の屋敷は村の奥、雑木林に囲まれた高台にあった。
古びた茅葺きの大屋敷で、軒端には蜘蛛の巣が幾重にも張られ、庭の苔むした石灯籠は半ば土に埋もれている。
三浦義嗣は、まるで干乾びた木の根のような老人だった。
目だけが異様に大きく、濁った硝子玉のように光っている。
「ようこそおいでなされた。…これが、その掛け軸でございます。そしてこちらが、硯」
老人は埃に埋もれた床の間から、黒漆の箱を取り出した。
中には古びた掛け軸と、小さな端渓の硯。
硯の縁には、乾いた血のような赤黒い染みがこびりついている。
語られた物語は、こうだった。
延慶四年(1311年)。
三浦義直という武士の娘に、多津子という子が生まれた。
生まれたときから、左の半身が魚のような鱗に覆われていた。
鱗は青味を帯び、陽光に当たると虹色に輝いたという。
多津子は人目を避けて育った。
ただ一人、村の硯職人の息子・石見英次郎だけが、幼い頃から彼女の友だった。
英次郎の一族は代々、呪法を伝えていた。―絵に「もの」を封じ込める術である。
封じ込められたものは年を取らず、絵の中で永遠に脈打つ。
ある日、岩槻城主・太田資正が「鱗の娘を見たい」と命じた。
多津子は嫌々ながら城に連れられ、見世物にされた。それ以来、彼女は誰とも口をきかなくなった。
英次郎は多津子に頼まれ、特別な硯を作った。
彼女の血を水に溶かし、髪を焼いた煤で墨をすり、それを血で引き伸ばして、掛け軸に鱗を描いた。
すると掛け軸が脈打ち、鱗だけが吸い込まれるように絵の中へ移った。
多津子の体から鱗は消え、絶世の美女が現れた。二人は恋に落ちた。
だが、美しすぎる多津子の噂は再び太田資正の耳に入った。
今度は見世物ではなく、妻にすると言い出した。多津子は拒んだ。
英次郎は絶望し、三浦義直に頼んだ。
「我々二人を、絵の中に封じ込めてほしい。そして頃合いを見て、
百年を経た棺の破片と多津子が愛した櫟の木で炊き上げてくれ」と。
絵師が呼ばれた。忍城の客分で、異様な術に長けた男だった。
ところがその絵師の噂を聞きつけた忍城主・成田氏長が、屋敷に乗り込んできた。
成田は多津子を見た途端、狂ったように惚れ込み、「絵に封じるなど許さぬ、私が妻にする」と宣言した。
太田資正は激怒し、忍城を攻めると息巻いた。
戦の火の手が上がりかけたその夜――多津子は自ら喉を掻き切り、大きな鉄瓶の中で体を煮た。
そして二人(太田と成田)に、こう告げたという。
「わたくしは、一人の殿方のもとにしか参れません。ですから、こうして分けさせていただきます」
英次郎は絶叫し、泣き崩れた。
そして最後に三浦義直に託した。
「再び多津子がこの世に現れるとき、どうかこの掛け軸から解き放ってほしい」、と。
英次郎は絵師に自分を描かせ、一枚の掛け軸となった。
掛け軸には、鱗の美しい女と、泣き腫らした目の若者が、寄り添うように描かれていた。
絵の中の男は、今も微かに息をしているという。
老人はそこで語りを止め、にやりと笑った。
「で、どうです? 信じられますか?」
妖道は答えた。
「にわかには信じられませんな。世にいう怪異は、調べればすべて人の仕業。すべて人間の都合で作られた物語にすぎません」
老人はくつくつと喉を鳴らした。
「ははは。若い。おっしゃることは分かります。だが、木は森に隠すもの。森があってこそ、木は隠れる。
怪異を隠したいのなら、まず怪異がなければならない。怪異がなければ、ただの与太話で終わりですな」
老人は立ち上がり、妖道の肩に干からびた手を置いた。
「明日までお待ちを。明日になれば、貴方の肝も冷えるでしょう。この品々、貴方に差し上げます。
いずれ、貴方の行く先に、必ず必要な時が来ますゆえ」
妖道は何か問おうとしたが、老人の目に阻まれた。
その目は、まるで底なしの井戸のようだった。
翌朝。妖道と清彦が目を覚ますと、屋敷は変わり果てていた。
屋根には大きな穴が開き、朝日が埃の舞う室内を照らしている。
柱は腐り、畳はカビに覆われ、まるで何十年も人が住んでいない廃屋のようだった。
布団の上に、三浦義嗣はいた。
ただし、もう骨と皮と、干からびた肉片だけ。
口元には、満足げな笑みが残っていた。掛け軸と硯だけが、なぜか新品のように光っていた。
清彦が震える声で呟いた。
「せ、先生…これ、本当に…」
妖道は答えなかった。
ただ、掛け軸をそっと抱え、硯を懐に収めた。
外では、朝靄の中に、かすかに鉄瓶で煮るような、ぐつぐつという音が聞こえていた。
甘く、温かく、生臭い匂いが、雑木林の奥から漂ってくる。鱗の香りだった―
翌朝、清彦は鏡の前で絶叫した。
頭頂に、一枚の青い鱗が光っていた。
それは、昨日まで探していた「髪」ではなく、
まるで掛け軸の中から抜け出したような鱗だった。
読んで頂き有り難う御座います。




