表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/14

(十二)鱗の娘

掛け軸が息づくとき、怪異は再び現れる。


1912年、大正元年。


明治の残り香がまだ街に漂う頃、武蔵国埼玉郡馬込村へと、民俗学者の佐久間妖道のもとに一通の手紙が届いた。


差出人は三浦義嗣と名乗る老農。村の長者と呼ばれる人物で、齢八十を越え、子孫もなく、家系が途絶えようとしている。


だからこそ、古くから伝わる一つの物語と、それにまつわる品を、妖道に託したいという。


馬込村はまだ近代の波から遠かった。


電柱もガス管もなく、田畑と雑木林がゆるやかな丘陵に沿って広がるばかり。


農家の煙突から立ちのぼる炊煙が、唯一の時間の目印だった。


助手の助川清彦は、このところ頭髪の薄さに悩み、道すがら出会う村人に、禿げ上がった頭頂を手のひらで撫でながら


「このあたりに髪の生える温泉はありませんか」と尋ねて回った。


そのため村人たちは我々を旅人と勘違いしたらしく、「ここには何もない、早く出て行かないと、日が暮れる」と


親切に忠告してくれた。


長者の屋敷は村の奥、雑木林に囲まれた高台にあった。


古びた茅葺きの大屋敷で、軒端には蜘蛛の巣が幾重にも張られ、庭の苔むした石灯籠は半ば土に埋もれている。


三浦義嗣は、まるで干乾びた木の根のような老人だった。


目だけが異様に大きく、濁った硝子玉のように光っている。


「ようこそおいでなされた。…これが、その掛け軸でございます。そしてこちらが、硯」


老人は埃に埋もれた床の間から、黒漆の箱を取り出した。


中には古びた掛け軸と、小さな端渓の硯。


硯の縁には、乾いた血のような赤黒い染みがこびりついている。


語られた物語は、こうだった。




延慶四年(1311年)。


三浦義直という武士の娘に、多津子という子が生まれた。


生まれたときから、左の半身が魚のような鱗に覆われていた。


鱗は青味を帯び、陽光に当たると虹色に輝いたという。


多津子は人目を避けて育った。


ただ一人、村の硯職人の息子・石見英次郎だけが、幼い頃から彼女の友だった。


英次郎の一族は代々、呪法を伝えていた。―絵に「もの」を封じ込める術である。


封じ込められたものは年を取らず、絵の中で永遠に脈打つ。


ある日、岩槻城主・太田資正が「鱗の娘を見たい」と命じた。


多津子は嫌々ながら城に連れられ、見世物にされた。それ以来、彼女は誰とも口をきかなくなった。


英次郎は多津子に頼まれ、特別な硯を作った。


彼女の血を水に溶かし、髪を焼いた煤で墨をすり、それを血で引き伸ばして、掛け軸に鱗を描いた。


すると掛け軸が脈打ち、鱗だけが吸い込まれるように絵の中へ移った。


多津子の体から鱗は消え、絶世の美女が現れた。二人は恋に落ちた。


だが、美しすぎる多津子の噂は再び太田資正の耳に入った。


今度は見世物ではなく、妻にすると言い出した。多津子は拒んだ。


英次郎は絶望し、三浦義直に頼んだ。


「我々二人を、絵の中に封じ込めてほしい。そして頃合いを見て、


百年を経た棺の破片と多津子が愛した櫟の木で炊き上げてくれ」と。


絵師が呼ばれた。忍城の客分で、異様な術に長けた男だった。


ところがその絵師の噂を聞きつけた忍城主・成田氏長が、屋敷に乗り込んできた。


成田は多津子を見た途端、狂ったように惚れ込み、「絵に封じるなど許さぬ、私が妻にする」と宣言した。


太田資正は激怒し、忍城を攻めると息巻いた。


戦の火の手が上がりかけたその夜――多津子は自ら喉を掻き切り、大きな鉄瓶の中で体を煮た。


そして二人(太田と成田)に、こう告げたという。


「わたくしは、一人の殿方のもとにしか参れません。ですから、こうして分けさせていただきます」


英次郎は絶叫し、泣き崩れた。


そして最後に三浦義直に託した。


「再び多津子がこの世に現れるとき、どうかこの掛け軸から解き放ってほしい」、と。


英次郎は絵師に自分を描かせ、一枚の掛け軸となった。


掛け軸には、鱗の美しい女と、泣き腫らした目の若者が、寄り添うように描かれていた。


絵の中の男は、今も微かに息をしているという。


老人はそこで語りを止め、にやりと笑った。


「で、どうです? 信じられますか?」


妖道は答えた。


「にわかには信じられませんな。世にいう怪異は、調べればすべて人の仕業。すべて人間の都合で作られた物語にすぎません」


老人はくつくつと喉を鳴らした。


「ははは。若い。おっしゃることは分かります。だが、木は森に隠すもの。森があってこそ、木は隠れる。

 

怪異を隠したいのなら、まず怪異がなければならない。怪異がなければ、ただの与太話で終わりですな」


老人は立ち上がり、妖道の肩に干からびた手を置いた。


「明日までお待ちを。明日になれば、貴方の肝も冷えるでしょう。この品々、貴方に差し上げます。

 

いずれ、貴方の行く先に、必ず必要な時が来ますゆえ」


妖道は何か問おうとしたが、老人の目に阻まれた。


その目は、まるで底なしの井戸のようだった。


翌朝。妖道と清彦が目を覚ますと、屋敷は変わり果てていた。


屋根には大きな穴が開き、朝日が埃の舞う室内を照らしている。


柱は腐り、畳はカビに覆われ、まるで何十年も人が住んでいない廃屋のようだった。


布団の上に、三浦義嗣はいた。


ただし、もう骨と皮と、干からびた肉片だけ。


口元には、満足げな笑みが残っていた。掛け軸と硯だけが、なぜか新品のように光っていた。


清彦が震える声で呟いた。


「せ、先生…これ、本当に…」


妖道は答えなかった。


ただ、掛け軸をそっと抱え、硯を懐に収めた。


外では、朝靄の中に、かすかに鉄瓶で煮るような、ぐつぐつという音が聞こえていた。


甘く、温かく、生臭い匂いが、雑木林の奥から漂ってくる。鱗の香りだった―


翌朝、清彦は鏡の前で絶叫した。


頭頂に、一枚の青い鱗が光っていた。


それは、昨日まで探していた「髪」ではなく、


まるで掛け軸の中から抜け出したような鱗だった。


読んで頂き有り難う御座います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ