(十三)三途の香り
ハゲ温泉とミツコの涙。
大正五年、冬の東京。民俗学者の佐久間妖道は、順天堂医院の病室で痛風の激痛に歯噛みしていた。
膝から足の裏まで、まるで千本の針を刺されたような痛みが波のように押し寄せる。
医者は「安静と経過観察」と告げ、二週間の入院を命じた。
見舞いに来た助手の助川清彦は、禿げ上がった頭頂部を無意識に撫でながら、ベッドの脇に腰掛けた。
「そういえば、君と出会ってからこういうことは一度あったね」
妖道が苦痛の合間に笑う。
「ええ、ありましたとも。僕を病院に置き去りにして、怪異を追いかけたヤツですよね」
清彦は頬を膨らませた。
「あの時は確か…君が『八尺様っているのか』って聞いたから、調べに行ったんだっけ」
「とってつけたような理由でしたけど、本当は伝承を聞き回ってたんでしょう」
「ははは。どうも二週間は動けないらしい。君もその間に女でも探してくると良い」
妖道の目が悪戯っぽく細められる。
「だから僕は女好きじゃありませんって」
「銀座に『カフェー・プランタン』ってのがあるそうだぞ。白いエプロンの似合う娘が隣に座ってくれる。
ゲランの『ミツコ』でも贈ればイチコロだ」
「また昔の話を持ち出して…明日また来ます」
清彦は立ち上がり、禿げた頭を撫でて病室を出た。そして、真っ直ぐ銀座へ向かった。
カフェー・プランタン。
ガス灯の柔らかな光が店内を照らす中、清彦を接客したのは、名札に「ミツコ」と書かれた女給だった。
「先生は何かお勉強なさってる方?」
ミツコの声は鈴のように澄んでいた。
「まあ、民俗学を少々」
「まあ、大先生じゃないの。旅の途中?」
「今は助手が入院中でね。その間は東京にいるよ」
「寂しいわね…こうして会えたのに」
清彦は翌日も、その次の日も通った。三日目に、蝶のブローチを贈り、五日目にはゲランの「ミツコ」を買った。
香水瓶を手に、頭の中で何度も繰り返す。(君と同じ名前だよ、って言ったら、どんな顔をするかな)
幸福な妄想に浸りながら歩いていると、ガス灯の柱に激突した。
頭を強く打ち、意識が遠のく。
運ばれた先は、皮肉にも順天堂医院だった。妖道の隣の病室。当時まだ珍しかった心電モニターが、清彦の胸に繋がれた。
針は静かに横這い、ただ一本の線を引くだけになった。
その瞬間、清彦は三途の川のほとりに立っていた。
向こう岸には、白い浴衣を着た禿げ頭の男たちが群れをなしている。
「ハゲ温泉があるぞー!」
「こっちだこっちだ!」
「髪が生えるぞー! ふさふさばっさばさじゃー!」
男たちは楽しげにフラダンスを踊りながら手招きする。
清彦は吸い寄せられるように足を踏み出しかけた。
その時、後ろから手首を掴まれた。
「だめよ」
振り返ると、そこにミツコがいた。
白いエプロン姿のまま、泣きそうな顔で。
「私を置いていくの?」
「ごめん…僕は、君よりも髪が大事だ」
清彦は震える声で言った。
「君だって結局、髪の生えた男が好きなんでしょう!」
「そんなことない!」
ミツコの涙が頬を伝う。
その涙が、三途の川の水面に落ちて波紋を広げた瞬間、清彦の身体に、強烈な香りが吹きつけられた。
ゲランの「ミツコ」。
病室で、妖道が清彦のポケットから見つけた香水を、死んだはずの清彦の顔に思い切り噴射していたのだ。
「やはり女遊びしていたんだな…」
妖道は呟きながら、もう一度シュッと押した。
心電図の針が跳ね上がった。ビクン、ビクン、ビクンと脈打ち、やがて安定したリズムを取り戻す。
目覚めた清彦は、ぼんやりとした目で妖道を見上げた。
「…僕は、三途の川を見ましたよ」
「ほう」
「向こう岸に…ハゲ温泉があるみたいです」
妖道が吹き出した。
数日後、退院した清彦は、すぐにカフェー・プランタンへ駆けつけた。
しかし、「ミツコさんなら、先週結婚して辞められましたよ」店員の言葉に、清彦は言葉を失った。
帰り道、冷たい風が禿げた頭を撫でていく。
ふと、胸ポケットに残る甘い香り――ゲランの「ミツコ」。
三途の川で嗅いだ、あの幻の女の香りと同じだった。
清彦は立ち止まり、震える手で香水瓶を取り出した。
蓋を開けると、中は空だった。いつから空だったのか。
最後の一吹きは、妖道があの世との境界で放ったものだったのだ。
風に乗って、遠くから聞こえてくる。
「ハゲ温泉があるぞー」
「こっちだよー」
清彦はゆっくりと歩き出す。
今度は誰も、手を引いてはくれない――
読んで頂き有り難う御座います。




