(十四)石兵八陣の横綱
尾張国の金太郎、石兵八陣に挑む。
大正六年、相撲界は異様な気配に包まれていた。
横綱の座が空位のまま、土俵は闇に沈むかのように静まり返っていた。
尾張国海部郡鍋田村稲元出身の力士、大五郎は、かつて「尾張国稲元村の金太郎」と称えられた男だった。
幼き頃、村の彦九田神社に奉納された力石を軽々と持ち上げ、村人たちを驚嘆させた。
江戸時代より続くその石たちは、力自慢の証として神社に置かれていたが、
大五郎はそれを独り占めするように使い、独自の修行を重ねた。
百を超える石を、松の根元へとすり足で運び、円形に並べる。
まるで庭園を造り上げるかのように、美しく、しかしどこか歪んだ配置で――
全盛期の大五郎は、生気と覇気に満ちた巨漢だった。
だが今、彼の姿は変わり果てていた。
怪我が続き、勝てず、土俵上でよろめくその体は、まるで半身がどこかに奪われたかのように虚ろだった。
「幻の横綱」と陰で囁かれるようになった頃、引退の噂が立ち始めた。
そんな折、民俗学者の佐久間妖道が、助手の助川清彦を伴って相撲部屋を訪れた。
妖道は大五郎の叔父筋にあたり、幼少期から彼を知っていた。
部屋に入るなり、妖道は大五郎の顔を見て目を疑った。
かつての輝きは失せ、目はくぼみ、肌は青白く、まるで生ける屍のようだった。
「病かね?」
妖道の声は低く響いた。
大五郎は力なく微笑んだ。
「叔父さん、やっぱりそう見えますか。病というより…子供の頃に叔父さんが話してくれた呪いのような感覚です。
私の半身が、どこかに捕らえられているような。力が、封じられているような…」
傍らの清彦が、悪戯っぽく口を挟んだ。
「覇気が無いですね。私でも勝てそうですよ。」
大五郎は苦笑し、「君には負けないさ」と応じたが、清彦は譲らず、即席の相撲を提案した。
土俵代わりの畳の上で、二人は組んだ。その瞬間、大五郎の巨体があっけなくひっくり返った。
清彦自身が一番驚いていた。
「ああ、駄目だ…どんどん自分の体が失われる感じがするんです。」
大五郎の声は震え、部屋に重い沈黙が落ちた。妖道は目を細め、呟いた。
「これは、何かしらあるな。お前、こうなる直前に何があったか、思い出してみろ。」
大五郎は思いを巡らせた。
「怪我が続いて、病院に通い、あんまを呼び、温泉にも浸かりました。ああ、それから神社で祝詞を上げてもらったな。」
「彦九田神社か?」
「ええ。」
妖道の表情が険しくなった。
「今から、そこへ行こう。」
「今からですか?」
「引退を考えているんだろう。それくらいの時間はどうにでもなる。」
清彦は二人のやり取りを黙って聞いていたが、感慨深げに呟いた。
「もしかしたら、私に相撲の才能があるのかも…」
妖道と大五郎は顔を見合わせ、揃って言った。
「君には無理だよ。」
清彦は禿げ上がった頭頂部を撫でながら、なぜかと問いかけたが、二人は部屋を後にした。
彼は慌てて後を追った。
外の空気は冷たく、夜の闇が迫るように濃かった。
彦九田神社に着いた時、妖道は境内を見て息を飲んだ。
松の根元に並べられた力石の配置が、奇妙に整然としていた。
円形に並ぶ石たちは、月光の下で不気味に輝き、まるで古代の呪文を象徴する陣のように見えた。
大五郎が説明した。
「ただ石を運んで並べるだけじゃつまらなかったので、子供の頃に叔父さんのノートにあった庭の石の通りに並べたんです。」
妖道の声が低く響いた。
「これは…石兵八陣だ。幻術の一つだよ。」
大五郎は目を丸くした。
「石兵八陣?」
「ああ、古代の呪術書に記されたものだ。石を特定の配置に並べ、文言を唱えると、術が発動する。
偶然だろうが、宮司の祝詞で術が完成したんだ。お前の半身は、この陣に封じ込められている。」
風が境内に吹き、松の葉がざわめいた。
大五郎は震える声で言った。
「叔父さん、昔は『この世におかしな事など存在しない、全てに意味がある』と言ってたじゃないですか。
そんな叔父さんが、幻術なんて信じてるの?」
妖道は苦笑した。
「かつての私なら、そう言ったろうな。だが、清彦君の荷物の中には、人が閉じ込められた掛け軸がある。
私は何度も、説明のつかない事に遭遇した。百歳にも満たぬ身で、この世の全てを理解したつもりになるのは、早計だよ。」
清彦の背後で、何かが動く気配がした。
掛け軸の影が、月光に伸びるように揺れた。
「とりあえず、あの石を一つどかしてみろ。」
大五郎が手を伸ばし、石をずらした瞬間、何かが彼の体に流れ込んだ。
失われた力が、冷たい波のように戻ってきた。
だがその時、陣の中心から、かすかな呻き声が聞こえた。まるで、封じられた何かが、目覚めようとするかのように。
それから大五郎は躍進した。
ライバルの朝日嶽と宮城山を次々と破り、大正七年、ついに横綱の地位に就いた。
第28代横綱・大錦大五郎の誕生だった。
祝いの席で、清彦が尋ねた。
「あの時、なぜ僕に相撲取りになれないと言ったんですか?」
大五郎は笑いながら答えた。
「それじゃ、マゲが結えないだろ。」
清彦は禿げ上がった頭を撫で回し、「本気を出せば結えますよ!」と応じた。
だがその夜、清彦の夢に、石兵八陣が現れた。
石の一つ一つが、ゆっくりと動き出し、彼の髪を封じ込めようとする。
目覚めた時、彼の頭頂部は、さらに禿げ上がっていた。
まるで、何かが彼の生気を、少しずつ吸い取っているかのように。
以来、清彦は時折、境内の石の配置を思い浮かべるようになった。
あの陣には髪が生える配置があるのではないか、と。
読んで頂き有り難う御座います。




