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(十五)大正七年・髪の降る町

髪は空から降り、恐怖は心に積もる。


大正七年、春の柔らかな陽光が日本列島を包む頃、世間は第28代横綱・大錦大五郎の誕生を祝っていた。


喜びに沸く人々の中で、ただ一人、助川清彦は暗い顔をしていた。


彼は妖道の助手として働く三十代の男で、頭頂部がすっかり禿げ上がっていた。


事務所の机に座り、指で頭皮を撫でながら、清彦はため息をついた。


「『石兵八陣』のせいだ。あの古い儀式のせいで、私の髪がどこかに封じ込められてしまった…」


傍らで書物をめくる民俗学者の佐久間妖道が、穏やかに言った。


「そんな気配はなかったよ。それに、君はもともと薄かったじゃないか。」


清彦は机を叩いて立ち上がり、声を荒げた。


「ハゲの度合いが違うんです! ポマードでテカテカに固めたあなたにはわからないでしょうが、


私のような微妙な量になると、わずかな変化がはっきりわかるんですよ。」


そう言い捨てて、清彦はドアを勢いよく開け、外へ出て行った。


妖道は肩をすくめ、独り言のように呟いた。


「やれやれ、また女のところか。」


清彦が向かったのは、銀座の『カフェー・プランタン』。


女給のハルコに、ゲランの香水「ミツコ」をプレゼントしたいと、口説いていたが、彼女は話を逸らした。


「最近、薩摩の谷山で変な雨があったんですって。髪の毛が降ってきたんですよ。道に積もるくらいに。」


その言葉に、清彦の目が輝いた。


「それ、私の髪だ! 私の髪の毛に違いない!」


彼は叫びながらカフェを飛び出し、息を切らして妖道の元へ駆け戻った。


「見つかりましたよ、先生。私の髪が!」


妖道は話を聞いて大笑いした。


「それが君の髪? いくらなんでも多すぎるだろう。」


清彦は真剣な顔で続けた。


「私だけじゃないんです。ハゲの被害者全員の髪ですよ。『石兵八陣』の儀式で奪われた髪が、


空から降らされているんです。愚かな誰かが、それを引き起こしているに違いありません。」


妖道はため息をつき、説明を始めた。


「怪雨は古くから知られている現象だよ。江戸時代の『和漢三才図会』にも記されている。


雨以外のおかしなものが空から降るんだ。魚やカエルが降ることもあるが、原因は小型の竜巻さ。


湖の水を吸い上げ、生き物も一緒に巻き込んで空へ運ぶ。それが落ちてくるだけだ。」


清彦は嘲笑うように言った。


「じゃあ、私の髪は竜巻にむしり取られたと? そんな記憶はないですよ。」


妖道は優しく笑った。


「まあ、谷山には温泉も多い。君の言う『ハゲ温泉』を探しに行こうか。湯治がてらに。」


清彦の顔がぱっと明るくなった。


「本当ですか? 行きましょう!」



大正七年、春も半ばを過ぎた頃、二人は薩摩府中近郊の谷山に到着した。


慈眼寺温泉や湯之谷温泉が点在するこの地は、湯の香りが漂う静かな町だった。


清彦は温泉の匂いに誘われ、足を速めたが、妖道が彼の襟を引いた。


「本題を忘れるな。怪雨の調査だよ。ハゲ温泉はついでさ。」


清彦は不満げに頷いた。


妖道は桜島を指さしながら続けた。


「魚やカエルの怪雨は全国的だが、髪の毛のようなものは火山地帯に限られる。


大正三年の桜島大噴火以来、あの山は今も煙を上げている。噴火の副産物として、火山灰やガラス質の繊維が降るんだ。


それが髪の毛のように見えるだけさ。触ればすぐに砕けてしまう、脆いものだよ。


君の髪だとしたら、すぐに崩れてつるっぱげだな。ははは。」


清彦は顔をしかめた。


「縁起でもない。もういいです。私は温泉を探します。」


その夜、清彦は宿で悪夢にうなされた。


夢の中で、彼の頭皮から一本一本の髪が、灰のように崩れ落ちていく。


風に吹かれて舞い上がり、灰色の雨となって降り注ぐ。


鏡に映る自分の姿は、つるつるの頭頂部が光り、目が虚ろに落ちくぼんでいる。


髪の喪失は、ただの外見の問題ではなかった。


それは彼の存在そのものを削ぎ落とす、静かな絶望だった。


触れるたび、指先に残るのは粉末のような残骸だけ。


夢の中で、清彦は叫んだが、声は出なかった。


代わりに、頭皮がひび割れ、底なしの闇が広がる。


目覚めた時、清彦の額は汗でびっしょりだった。


枕元に落ちた一本の髪を見つめ、彼は震えた。現実の髪は、いつ崩れ落ちるかわからない。


火山の灰のように、竜巻の渦のように、すべては自然の気まぐれで失われる。


ハゲは、ただの現象ではない。ゆっくりと忍び寄る、避けられない恐怖だった。


翌朝、谷山の町は静けさに包まれていた。


桜島の山肌からは白い煙が立ち昇り、風に乗って町へと流れてくる。


清彦は宿の縁側に座り、昨夜の悪夢を思い返していた。


枕元に落ちていた一本の髪は、夜が明けると灰のように砕けて消えていた。


「やはり、私の髪は戻らないのか…」


彼は呟き、頭皮を撫でた。


その時、妖道が湯桶を抱えて現れた。


「湯治の時間だ。髪を探すより、心を癒す方が先だろう。」


二人は慈眼寺温泉へ向かった。湯煙の中、清彦は湯に身を沈める。


温泉の熱が頭皮を包み、昨夜の恐怖が少しずつ溶けていくようだった。


「髪は空から降り、灰となって消える。だが、人の心は残る。」


妖道の言葉に、清彦は目を閉じた。


谷山の空は晴れ渡り、桜島の煙はゆるやかに流れていた。


髪の雨はもう降らない。だが、清彦の心には、


「失われるものを抱えながら生きる」という静かな覚悟が芽生えていた。


そして彼は、湯の香りに包まれながら微笑んだ。


――髪は戻らずとも、春の陽光は変わらず彼を照らしていた。


読んで頂き有り難う御座います。

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