(十六)ほくろの微笑
ライカが写したのは、愛か、幻か。
一九二〇年、東京。
神田の路地裏に、薄汚れた宿舎が並ぶ一角で、民俗学者の佐久間妖道は、
旅の途中で集めた数多の伝承を、静かにまとめ上げていた。
各地を巡り、怪異や民話の断片を掻き集める彼の傍らには、助手である助川清彦がいた。
清彦は妖道の忠実な従者だったが、最近の彼は、妖道の心配をよそに、
銀座のカフェ「プランタン」へ足繁く通うようになっていた。
マカロニグラタンを好み、女給たちと戯れるその姿は、旅の頃の痩身の男とは別人のようにふくよかになっていた。
妖道は、そんな清彦の女好きを咎めようとしたが、結局は諦め、口を閉ざすようになった。
自身は、執筆に没頭する日々で、余裕などなかったのだ。
清彦は毎朝、宿舎から「プランタン」へと歩く道すがら、神田の一角に佇む小さな地蔵を見かけた。
石の体は風雨に晒され、寂しげに立っていた。
何のための地蔵か、知る由もなかったが、三日目に、清彦は思わずその頭に自分の帽子をかぶせた。
「これで、少しは暖かかろう。私も同類だよ」と、自身のはげ上がった頭頂部を撫でながら、独り言を呟いた。
それ以来、地蔵に立ち寄ることが、清彦の日課となった。
まるで、誰かに見守られているような、奇妙な安堵を覚えながら――
そんなある日、清彦が地蔵の前にしゃがみ込んでいる時、背後から柔らかな声がした。
「やさしくしてくださって、ありがとうございます」
振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。
少女のように若々しく、左の口元に大きなほくろがあった。清彦は驚き、言葉を失った。
彼女は微笑みながら名乗り出た。
「わたくし、武市寿美と申します。この近くの会社に勤めております。
ここ最近、あなた様をよくお見かけするので、声をかけてみました」
清彦は、女性の前ではいつも助手であることを隠し、こう名乗ることにしていた。
「私は民俗学者の助川清彦と申します。諸国を巡り、怪異や伝承を集めております」
寿美は目を丸くし、「まあ、おえらい先生なのですね」と感嘆した。
清彦は満面の笑みを浮かべ、「まあ、ほどほどにね」と返した。
そして、ふと思い立ったように提案した。
「お腹がすいていませんか? 近くに共栄堂という店がありまして、美味いライスカレーを食わせてくれますよ」
寿美は顔を赤らめ、腹の音を抑えながら「あら、いやだわ」と呟いた。
二人は連れ立って共栄堂へ向かった。清彦は説明した。
「ここのはスマトラ風で、少し違うんです。色が黒っぽくて、水っぽいんですよ」
寿美はくすくす笑い、「あら、それ褒め言葉なのかしら」と返した。
清彦ははげ頭を撫で、「褒めているつもりなんですがね。スパイスが効いていて、サラサラと口に馴染むんです」
食事を終え、寿美の口元にカレーが付いているのに気づいた清彦は、お手拭きでそっと拭ってやった。
彼女はぽっと頰を染めた。
それ以来、二人はほぼ毎日、共栄堂で待ち合わせるようになった。
寿美の何事にも新鮮な反応に、清彦は心を弾ませた。
彼女は明治生命保険会社に勤めていると言い、仕事の合間に現れる。
妖道に紹介しようと何度も約束を取り付けたが、なぜか妖道を連れて行くと、寿美は現れなかった。
妖道は「職業を持つ女性は忙しいものだ。ましてや、あの会社ならなおさら」と言い、思い出したように付け加えた。
「そういえば、私の本の出資者は明治生命保険会社の武市利美社長なのだよ」
清彦は驚いた。
「僕が紹介したい女性も、武市寿美さんというんです。同じ苗字だ」
妖道は首を傾げ、「社長に、そんな大きなお嬢さんがいたとは聞いていないが――まあ、いずれわかるだろう」と口にした。
さらに一月が過ぎた。
妖道の本がようやく出版され、再び旅の準備が始まった。
清彦も荷をまとめようとすると、妖道は静かに言った。
「君は今回は残った方がいいのではないか。武市社長のお嬢さんね…」
清彦は妖道の言葉を遮り、吐露した。
「先生と長い旅をして、色々なものを見てきた私です。なんとなく気づいているんです。
彼女の顔を思い出そうとしても、口元のほくろ以外はぼんやりとしている。毎日会っているのに、何なんでしょうね。
だから、明日、自分なりの結論を出します」
翌日、共栄堂はいつもより静かだった。
二人はライスカレーを食べ、寿美は口元を汚しながら笑った。
「わたくし、ここのライスカレーが大好きになりましたわ」
清彦は応じ、「黒くて、水っぽくて、美味いね」
そして、別れを告げた。
「僕はまた旅に出なければいけない。だから今日は、記念に妖道先生からライカを借りてきたんだ。写真を撮ろう」
寿美は喜び、「あら、写真機ですのね。お父様に子供の頃撮っていただいた以来ですわ」
清彦は彼女の口元を拭き、並んでシャッターを切った。
事務所に戻った清彦は、うなだれていた。
妖道は一枚の写真を差し出した。
「武市社長のお嬢様の寿美さんだ。スペインカゼで幼くして亡くなったそうだ。
会社の前の地蔵は、彼女を弔うためのものらしい」
清彦はその古い写真を見て、涙を流した。
そこに写る少女は、間違いなく寿美だった。口元のほくろが、すべてを語っていた。
ライスカレーを愛した彼女は、すでにこの世のものではなかったのだ。
地蔵の前に現れた彼女は、優しさを求めて彷徨う魂だった。
清彦は帽子を被せたあの瞬間から、彼女に呼ばれていたのかもしれない。
それ以来、清彦は地蔵と見れば、地蔵の前に立ち、独り呟くようになった。
「これで、少しは暖かかろう。私も同類だよ」
だが、今度は自分の頭ではなく、地蔵の頭を撫でながら――
風が通り過ぎるたび、地蔵の石の唇が、ほんのわずか微笑むように見えた。
読んで頂き有り難う御座います。




