(十七)辰五郎の柱
海は怒りを忘れない。忘れるのは、いつも人間だ。
1896年3月の頃、若き民俗学者・佐久間妖道は、まだ駆け出しの身ながら、陸中国姉吉村へと足を運んだ。
村は海岸沿いにひっそりと佇む小さな集落で、海の風が絶えず吹き抜ける場所だった。
妖道の目的は、村の古老たちから古い逸話を集めること。
とりわけ、齢百を超えると噂される「姉吉の婆」と呼ばれる老女の話に、心を惹かれていた。
婆の住む粗末な小屋は、村の奥深くにあった。
妖道が訪れると、婆は暗い部屋の奥で、煙る囲炉裏の前に座っていた。
彼女の目は、濁った海の底のように深く、声は風に揺れる枯れ枝のようだった。
「海は三年に一度、怒りを爆発させる」「海鳴りが続くと、大波がやってくる」「冬至の朝日は、海の神の目覚めじゃ」
「海の底には、亡き者たちの国がある」「海は、人を選んで連れていく」…そんな海にまつわる不気味な言い伝えを、
婆は淡々と語った。
妖道はノートに筆を走らせながら、背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。
これらの言葉は、単なる迷信ではなく、海の闇に潜む何かの警告のように思えた。
村での滞在は、予定のひと月を優に超えていた。
雪が降る前に立ち去ればよいと、妖道は自分に言い聞かせ、すっかり村人の生活に溶け込んでいた。
それを許したのは、婆の逸話だけではない。村の彫り師、辰五郎との酒宴が、妖道の心を捕らえていた。
辰五郎は自ら醸す濁り酒を振る舞い、その甘く奥深い味わいは、妖道を虜にした。
酒が進むにつれ、辰五郎は山の怪異を語り出す。
「山の奥には、人の形をした影がいる。そいつは、迷い人を誘って、永遠に彷徨わせるんだ」
そんな話に、妖道は酔いしれた。
夜の闇が深まる中、二人は火を囲み、互いの言葉に耳を傾けた。
外では、海の波音が、遠くから嘲るように響いていた。
そんな平穏な日々が、1896年6月15日の19時過ぎに、突如として崩れ去った。
妖道と辰五郎は、いつものように酒を酌み交わしていた。
突然、地面がゆらりと揺れ始めた。
最初は酒の酔いが回ったせいかと思ったが、すぐにそれが地震だと悟った。それほどに弱い揺れであった。
揺れはゆらゆらと続き、5分は続いただろうか。
妖道の心に、婆の言葉が蘇った。海の警告──。彼は立ち上がり、辰五郎に言った。
「村人を避難させた方がいい。婆の話は、すべて海の災厄を予言しているんじゃないか」
辰五郎も妖道の真剣な眼差しに押され、重い腰を上げた。
二人は浜辺へと急いだ。夜の闇に包まれた海岸に着くと、異様な光景が広がっていた。
海水が一気に引いていたのだ。有り得ないほどの陸地が露わになり、闇の彼方まで続いているようだった。
妖道の喉から、叫びが迸った。
「津波だ! 皆、丘へ逃げろ!」
しかし、村人たちは動かなかった。姉吉の婆が、静かに言ったのだ。
「揺れが小さい。あんな揺れじゃ、津波は来ないよ」
婆は百年前の寛政地震を生き延びた者だった。
「あの時は、海が赤く染まった。波が山を越えてきた。人の叫びは、海に飲み込まれたんだ…」
その言葉に、村人たちは足を止めた。
妖道は必死に説得を試みたが、辰五郎に諭され、仕方なく丘の上へ上がった。
婆の目は、諦めと確信に満ちていた。それから、どれほどの時が経っただろうか。
突然、海が鳴いた。
聞いたことのない轟音が、世界を覆い尽くした。
地響きのような音が、何度も繰り返された。それは、海の底から這い上がる獣の咆哮のようだった。
妖道の耳に、波のうねりが近づく音が響き、恐怖が全身を凍りつかせた。
闇の中で、何かが──膨大な水の塊が──迫ってくる気配がした。
翌朝、薄い朝日が照らし出したのは、地獄の光景だった。村は跡形もなく消え去り、海岸には建物の残骸が散乱していた。
無数の亡骸が、波に運ばれ、重なり合って打ち上げられていた。
血と泥にまみれた体、引き裂かれた衣服、絶望に歪んだ顔…。
妖道と辰五郎は、空に向かって叫び、泣いた。二人は、村で唯一の生き残りだった。
辰五郎は、倒壊した家の柱を拾い上げ、津波の被害が及ばない高台に立てた。
「妖道さんよ、おれは学がない。後世の者たちに伝えたい。何と彫ればいい」
妖道は、震える声で答えた。
「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」
そして、付け加えた。
「これから世の中は、様々なものが発展するだろう。それが慢心を生み、再び『忘却』という名の怪異が現れるのだ」
妖道の誘いを断り、辰五郎は村に残った。
亡骸を弔うためだ。妖道は一人、村を去ったが、心には永遠の闇が刻まれた。
それから三十七年後、昭和八年(1933年)の大津波が再び海岸を襲った。
瓦礫の中で、生存者たちは古い柱を見つけた。
「児孫和楽」と刻まれた文字が、風雨にさらされながらも残っていた。
その心を忘れぬよう、新たな石碑が建てられた。
だが、海は今も静かに息を潜め、次の怒りを蓄えている。忘却の波は、いつか再び訪れるのだ。
読んで頂き有り難う御座います。




