(十八)水の怪
怪異と科学が交差する湿地の村。 一人の女性の死が、日本の医学史を動かす。
明治三十七年、備後国の深安郡川南村片山。
芦田川と高屋川が交わり、霧のような湿気が永遠に漂うこの地は、古来より水の呪いが囁かれる場所だった。
村人たちは、水辺に潜む怪異を畏れていた。
許しなく川に入る者を、腹を膨らませて殺すという。まるで内側から食い破られるような、残酷な死。
現代になっても、その祟りは途切れることなく、村を覆っていた。
民俗学者の佐久間妖道は、そんな噂を耳にし、助手の助川清彦を伴って村に足を踏み入れた。
妖道は好奇心に駆られ、清彦は渋々従う。
村の病院は、既に怪異の証拠で満ちていた。
患者たちは、目は黄濁し、手足は枯れ枝のように痩せ細り、腹だけが餓鬼のように膨張していた。
息も絶え絶えに呻く姿は、人間とは思えぬ異形。
妖道は眉をひそめ、病院を後にした。
「これは…怪異などと軽々しく呼べぬ惨状だ」
清彦は震える声で呟いた。
「まるで河童のようですが…毛むくじゃらの。先生、もう帰りましょう。水に入れば祟られるんですよ。温泉さえ入れない」
妖道は笑みを浮かべ、答えた。
「ならば、その祟りの源泉を覗いてみようではないか」
湿地帯を川沿いに進むと、一人の男が水を採取していた。
桂田富士郎、寄生虫学を専門とする学者だ。
彼の幼馴染、川北ハルがこの奇病に倒れたという。民俗学者の妖道に、桂田は問いかけた。
「この地の伝承を考察すれば、何が導き出せますか?」
妖道は静かに語った。
「すべて水にまつわる怪異。水の怪が祟るという。つまり、水中に悪さを為す何かが潜む。
古人はそれを畏れ、怪異と名付けたのでしょう」
桂田の目は輝いた。
「まさにその通りです。私は近隣の水を調べているが、何も見つからない。まるで無色透明の化け物のように」
病床のハルは、聡明な瞳を妖道に向けた。彼女の体は既に蝕まれ、腹は不気味に膨らんでいた。
「お二人とも、この水の怪の正体など、すぐに分かりますわ。何故なら、私の体の中に封じ込めているのですから。
私の命が尽きる時、それが勝負です。決してこの体から逃さぬよう、切り刻んでください。きっと、見つけられるはず」
桂田は目を赤く腫らし、ハルの枯れた手を握りしめた。
「分かった。君の敵は必ず討つ」
間もなく、ハルは静かに息を引き取った。
桂田と妖道は、彼女の遺言に従い、体を解剖した。
肝臓と腸の血管から、無数の虫卵が発見された。日本住血吸虫――それが、水の怪の正体だった。
無色透明の寄生虫は、水を通じて人々を蝕み、腹を膨らませて殺す。
古の恐怖は、科学の光で暴かれたが、その源流を辿るには、さらに細菌学者の手が必要だった。
しかし、この長きにわたる水の呪いの正体が明らかになったのは、一人の勇気ある女性の決意によるものだった。
彼女の体は切り刻まれ、怪異は姿を現した。
だが、村の湿地は今も静かに息づき、水面の下で新たな卵が孵化を待っているのかもしれない。
祟りは、決して終わらない。
読んで頂き有り難う御座います。




