(八) 白妙幻影譚
幻術と怪異が交錯する――人面犬伝説の源流を描く、妖道と清彦の怪異紀行
明治の頃、浅草寺の裏手に広がる奥山は、江戸の残り香を纏った賑わいの渦中だった。
芝居小屋、寄席、見世物小屋、茶屋が肩を寄せ合い、庶民の心を掴んで離さなかった。
珍獣の咆哮、曲芸師の華麗なる舞、幻術の妖しい揺らめき、そして怪奇な展示物が、夜の闇を彩っていた。
少年時代の佐久間妖道は、そんな奥山に魅了された一人だった。
彼の目は特に、幻術――手妻に惹かれていた。
後に甲賀流忍術第十四世を継ぎ、陸軍学校や中野学校で忍術を講じる藤田西湖の兄、西岸の手妻小屋に、足繁く通ったものだ。
西岸は牛の目玉をカメラ代わりに使い、客の姿を写し取ってみせる技で知られていた。
その不思議な撮影術に、妖道は心を奪われた。
年上の一回りも違う西岸を、いつしか兄のように慕うようになった。妖道が二十二歳の頃である。
やがて、数年が過ぎた。
妖道は一匹の白い犬を拾った。下宿では飼えず、西岸に相談すると、彼が引き取ってくれた。
名を白妙と妖道が付け、以来、西岸の元で育った白妙は、見世物小屋の人気者となった。
西岸は自分そっくりのゴム製マスクを白妙に被せ、マントで身を隠した自分の首を引っ込め、その上に白妙を乗せる。
そうして、ろうそくの揺らぐ光の中で、男の姿が現れる。
突然、頭がぽとりと落ち、地面を転がり這い回る。
体はふらふらと彷徨い、ようやく頭を捕まえて元に戻すと、すべてが元通り。
種を知る妖道でさえ、頭が本当に動いているように見えた。
西岸は言った。
「人間の脳は九割が思い込みと経験でできている。考えているようで、考えられない。
同じ状況に出くわすと、どんなに誤っていても、常識の枠に修正しようとする。それが錯覚だ」
白妙は賢い犬だった。何でも覚え、妖道でさえ一つの芸を仕込めた。
「白妙」と呼び、指を上に向けると、「わん!」と吠えて宙返りをするのだ。
明治二十七年、一八九四年。
東京湾北部地震が起きた。東京と横浜を激しい揺れが襲い、死者三十一人、負傷者百五十七人。
建物が倒壊し、火災が広がった。
その中には藤田家の本家もあった。西湖が瓦礫に取り残され、西岸と白妙が火の中に飛び込んだ。
彼らは西湖だけでなく、近隣の住民をも救い出した。
だが、その後、二人の姿を見た者はいなかった。煙に溶け込むように、消えた。
大正四年、一九一五年。
東京は明治の近代化を継ぎながら、大正モダンの曙光を浴びていた。
伝統の下町文化と西洋風の街並みが混じり合い、活気に満ちていた。
四、五階建ての建物が並ぶ裏路地を、民俗学者の佐久間妖道と助手の助川清彦が歩いていた。
清彦は禿げ上がった頭頂にガス灯の柔らかな光を浴びせながら、ぼやく。
「先生、いませんねえ。それより、お腹すきませんか?」
妖道は微笑んだ。
「いないねえ。君は本当に、女と食べ物のことしか興味がないよねえ」
「先生、大昔のことをいつまでも言わないでくださいよ」
「大昔かあ。君とは色々と旅をしたねえ」
突然、清彦が路地の隙間を覗き、腰を抜かして叫んだ。
「わっ! 人面犬だ! 本当にいた…」
妖道が視線を向けると、確かにいた。人面の犬。
闇に溶け込むような影の中で、妖道をじっと見つめている。
その犬は、首を振って顔の覆いを外し、座った。
白い老犬だった。妖道の体が震えた。
まさか、そんなはずはない。だが、目の前のそれは白妙だった。
「白妙!」妖道は呼び、指を上に向けた。犬は「わん!」と一声、宙返りをして闇の中に消えた。
三十年。生きていようとは――。
妖道は路地に立ち尽くした。
清彦は震える声で繰り返した。
「人面犬だ…本当にいたんだ…」
妖道は答えず、ただ闇を見つめ続けた。
白妙の姿はもうない。だが、確かにそこにいた。
人は錯覚を恐れ、幻を語り継ぐ。
やがてそれは怪談となり、都市の伝説となる。
浅草奥山の夜に消えた白妙は、
今もどこかで人の目を欺き、
人面犬として生き続けているのかもしれない。
読んで頂き有り難う御座います。




