(七) 口裂け女とマスク
恐怖は眠らない。百年を越えて、再び咲く。
大正七年、スペイン風邪が世界を呑みこんだ年である。
日本では三十八万とも四十万とも言われる死者が出た。
町々は棺の行列で埋まり、列車は死体を積んで走った。
人々は白い布を折りたたみ、ゴム紐で耳にかけ、顔の下半分を隠した。
マスクは恐怖の象徴であり、同時に唯一の救いでもあった。
美濃国郡上郡、深い山の襞に抱かれた小さな村があった。
そこに、今村登代子という女がひっそりと暮らしていた。二十二歳。
かつては東京のカフェーで客を相手に笑顔を振りまいていた娘だった。
彼女の人生は、ある「約束」で一瞬にして崩れた。
新進の劇団が彼女を見初めた。舞台に立てる。だが条件がある。
口が小さい。もっと大きく、異国風の艶やかな口にしなければ役が務まらない。
登代子は迷わなかった。夢が目の前にあった。
手術は失敗した。メスは深く入りすぎ、縫合は乱れ、傷口は化膿した。
口は耳の付け根まで裂け、閉じてもヨダレが糸を引いて垂れる。
鏡を見るたび、彼女は絶叫した。
劇団は金を握らせ、口を塞ぐようにして彼女を東京から消した。
実家に戻った登代子は、誰にも顔を見せなかった。
そこへスペイン風邪がやってきた。
村人もマスクを着けた。登代子は初めて外に出られた。
白い布は彼女の醜さを完全に隠した。人々は彼女を「都会の娘さん」と呼び、誰も怪しまなかった。
彼女は生き返った気がした。だが、長い孤独は人の心を歪にする。
ある日、ふと鏡を見た。マスクの下の自分を、本当に誰もが恐れるのか確かめたくなった。
醜いのはわかっている。でも、もしかしたら大したことはないのかもしれない。
誰かが「そんなにひどくないよ」と笑ってくれれば、それで救われるかもしれない。
最初は小さな子だった。裏山で遊ぶ子どもたちに近づき、そっとマスクを外した。
「ねえ、私、きれい?」
裂けた口が夕陽に濡れて光った。歯茎までむき出しの歯が、ぎらりと並ぶ。
子どもたちは凍りつき、次の瞬間、獣のような叫びを上げて逃げた。
一人は恐怖で失禁し、地面に茶色の染みが広がった。
登代子は慌ててマスクを戻し、山へ駆け戻った。心臓が喉までせり上がっていた。怖かった。
でも、同時に奇妙な解放感があった。それから半年。彼女は子どもを見つけると、そっと近づき、マスクを外した。
「私、きれい?」
泣き叫ぶ声が山にこだまする。噂は瞬く間に広がった。
「口裂け女がいる」
「マスクを外すと口が耳まで裂けてる」
「子どもに『私きれい?』と訊く」
それが民俗学者の佐久間妖道の耳にも届いた。
妖道は古くから口裂け女の伝承を追っていた。江戸中期の怪談集『諸怪図巻』にも、似た姿の女の目撃談が載っている。
百姓一揆の折、口を裂く刑を受けた女の怨霊が、時を超えて現れるのだと妖道は考えていた。
だが、目撃があまりに頻繁で、しかも特定の村に集中している。
これは怨霊ではない。生身の人間だ。妖道は助手の助川清彦を連れ、春の美濃路を訪れた。
二人は三日間、山道を見張った。
四日目の夕暮れ、桜の花びらが舞う小径に、白いマスクの女が現れた。
清彦が先に動いた。無言で近づき、マスクに手を伸ばす。女は反射的に平手打ちを食らわせた。
清彦は尻餅をついた。
夕陽が彼の禿げ上がった頭を赤く染める。
「君は本当に、女と見れば手が早いな」
妖道が苦笑しながら呟いた。
「だって、目の前にいるんですよ。逃げられたら困るじゃないですか」
清彦は頭をさすりながら立ち上がる。
女が鋭く訊いた。
「何なんですか、あなた方は!」
妖道は静かに名乗った。
「私は佐久間妖道と申す、俗に言う妖怪研究者です。この地に口裂け女が出ると聞き、真実を見極めに来ました。
どうやら、私の想像とはだいぶ違っていたようだ」
彼は一歩近づき、穏やかに続けた。
「もしよろしければ、そのマスクの下を、私に見せてはいただけませんか。
私には東京で近代医学を修めた知己がおります。何とかお力になれるかもしれません」
登代子はしばらく黙っていた。風が桜を散らす。やがて、震える手でマスクを外した。
裂けた口。歪んだ唇。糸のように垂れるヨダレ。
妖道は目を逸らさなかった。
「…辛かったね」
それだけ言った。
そして翌朝、東京から呼び寄せた医師、高須イマが村にやってきた。
当時最先端の形成外科医だった高須は、登代子の口を見ると、にやりと笑った。
「イエス! まかせてちょうだい」
手術は三時間で終わった。
傷は奇跡のように塞がった。唇は以前より少し大きめになったが、それはむしろ愛らしい程度だった。
登代子は鏡を見て、初めて自分の声で泣いた。
それから六十年。口裂け女の噂はぴたりと途絶えた。
ただ、時折、古い民俗学者たちの間で囁かれる。
「本当の口裂け女は、大正の終わりに消えた」
「でも、恐怖は形を変えて残った」
そして昭和五十三年の冬。
どこかの街で、夜道を歩く子どもたちが、突然、白いマスクの女に行き会った。
「ねえ、私、きれい?」
マスクが外れる。裂けた口。子どもたちは悲鳴を上げて逃げた。
女は赤いコートを翻し、風のように追いかける。
その背後で、遠く大正の記憶が、かすかに笑ったような気がした。
恐怖は、決して死なない。ただ、眠り、再び咲く日を待っているのだ。
読んで頂き有り難う御座います。




