(六) 八尺様の境界
八尺様は幻か、それとも人間の闇か
出羽国、村山郡大倉郷の奥、山裾に抱かれた田園は、夏の盛りを過ぎると急に静寂を深めた。
稲穂が黄金に刈り取られ、残った茎の切り口が風にざわめくだけ。
朝靄が立ち込める田のあぜ道は、まるで底なしの沼のように白く淀んでいた。
あの夏、佐久間妖道と助川清彦は「くねくね」を解体し、毒ガスの幻影だと断じた。
だが、幻影は消えても、毒は残った。
清彦は一週間、村の小さな病院に取り残された。
脳障害は免れたものの、頭の奥に巣食った微かな違和感は、禿げ上がった頭皮の下で、ときおりくねくねと蠢いた。
同室の老人は、夜ごと語った。
「八尺様って知ってるかね」
白いワンピースの女が、塀の奥や祠の陰、窓の外──境界と呼ばれる場所に立つ。
背は八尺を超え、つば広の帽子で顔を隠し、近づくとき「ぽぽぽ…」と喉の奥で笑うという。
一度目をつけられたら、数日のうちに連れ去られ、二度と戻らない。
清彦は笑った。笑おうとした。だが、笑いが喉の奥で「ぽぽぽ…」と歪んだ気がした。
妖道は病室に顔を出さなかった。
清彦が退院の日、ようやく現れた男は、どこか疲れた顔をしていた。
「捨てられたと思ったよ、先生」
「君が本気で訊いただろう。『本当にいるのか』ってな」
妖道は煙草を一本くわえ、火をつけずに転がした。
「結論から言うといる。だが、いない」
「…は?」
「関東以北にしかいない。南には一例もない。そして必ず“境界”に立つ。
塀、祠、窓──こちらとあちらを隔てる場所でしか現れない」
妖道は指で宙を裂く仕草をした。
「雪国には流雪溝がある。豪雪になると溝が詰まり、歩道に雪が積み上げられる。
塀越しに、こちら側からはあちらが見えない。そこを大人の女が歩けば、雪の上に乗った分だけ背が高く見える。
八尺どころか、十尺にもなる」
清彦は自分の禿げ頭を無意識に撫でた。冷たい。
「じゃあ、『ぽぽぽ』は?」
「あれは雪が崩れる音だ。歩くたびに『ぽっ、ぽっ』と崩れ、
滑りそうになって『おっとっと』が『ぽぽぽ』に聞こえる。耳は都合のいいように変換する」
妖道は煙草をへし折った。
「もう八尺様は完成してしまった。誰かが“ぽぽぽ”と聞けば、それで八尺様になる」
二人は病院を後にした。
晩秋の公園は、落ち葉が腐ったような匂いを漂わせていた。そのときだった。
黒ずくめの男たちが、数人、子供たちを囲むように立っていた。手に持つのは無線機。低いノイズと声が漏れる。
「ぼーぼぼぼ…ぼぼぼぼ…」
子供の一人が顔を上げた。男たちは妖道に気づくと、無言で散会し、黒いバンに乗り込んで消えた。
風が吹いた。落ち葉がざわめき、まるで「ぽぽぽ…」と笑うように舞った。
妖道は静かに呟いた。
「八尺様を追いかけると、もっと深い闇に辿り着きそうだな」
清彦の頭皮が、ぴりぴりと疼いた。禿げた頭の奥で、何かが蠢く。
「先生…」
「ん?」
「境界って、本当に雪や塀のことなんですか?」
妖道は答えなかった。
ただ、遠くの公園のフェンスを見ていた。
鉄の柵の向こうに、誰もいないのに、白い影がゆらりと揺れた気がした。
人間が作り上げた怪異は、もう人間の手を離れて歩き始めている。
八尺様そのものが、何かの隠れ蓑にされていても不思議はないのだ。
そして、人間こそが一番恐ろしい存在だということを、二人とも、骨の髄まで知っている。
その夜、風は止み、境界は静かに佇んでいた。
だが静寂こそが、もっとも深いざわめきなのだ。
八尺様がいるかいないかは、もう問題ではない。
見てしまった者の心に、境界は永遠に刻まれる。
そして、境界を越えるのは怪異ではなく──
いつだって、我々、人間の方なのだ。
読んで頂き有り難う御座います。




