(五十 ) 川に沈めた名前
名を捨てたとき、人ははじめて自分に出会う。
明治六年六月十五日。
朝から細かな雨が降り続く、鬱陶しい一日だった。
紀伊徳川家の当主、徳川茂承に遅くして、三男が誕生した。名を頼方とつけた。
長男の頼倫はすでに十五歳を迎え、家督を継ぐ意識を芽生えさせ、
次男の頼貞は芸術の道に傾倒し、視線を遠く海外へと向けていた。
そんな兄二人に可愛がられ、頼方は健やかに育った。
頼方は幼少より関口新心流の剣術を学び、その理念に深く通じた。
身体の中心から自然に技が湧き出るという教えは、相手の動きに臨機応変に応じることを意味した。
頼方は生まれつき頭頂部の毛髪が欠損しており、医師の診断では先天性のもの、生涯毛は生えぬだろうとされた。
しかし、何かを失えば何かが得られるという世の理に漏れず、
彼は武芸のみならず算術、泳法、芸術の分野で才能を発揮した。
多趣味ゆえに、自分の容姿を顧みることもなく、家柄の恩恵で誰からも咎められることなく、頼方はすくすくと成長した。
二十歳の頃、九条清子との婚約が決まった。清子は十四歳の可憐な少女だった。
数年後、次男の頼貞が巴里へ芸術留学の旅に出た。良き話し相手だった兄の不在は、頼方の心にぽっかりと穴を開けた。
そんな折、許嫁の清子が病に伏せ、婚礼が遅れているとの噂を耳にした。
心配した頼方は、毎日のように近隣の神社でお百度参りを始めた。
ある日、疲れ果てて神社の社殿でうとうととしていると、耳に清子の声が響いた。
どうやら、彼女の従者たちが気軽に噂話を交わしているようだった。
「わたくし、あんな頭の禿げ上がった殿方のもとには嫁ぎたくありませんわ。あれではまるで河童ですわ。
わたくし、そんなお子を身ごもりたくないのです。ですから、これからは一生を病で過ごしますの」
その言葉は、頼方の胸を鋭く刺した。
生まれて初めて、自分の醜さを直視した瞬間だった。
それ以来、彼は河童の絵を描き続けるようになった。
次第に自分が河童に似ていると思い込み、最後には自分こそ河童ではないかと信じ始めた。
この日から、彼は本名を捨てた。
「川に自らを捨ててこよう。姓は捨川がいい。名は河童と気づかせてくれた清子から一文字貰って、男ゆえ清彦。
うん、捨川清彦にしよう。」
置き手紙を一通残し、清彦は信濃国の山深くへ向かった。
芦の陰に身を潜め、河童を待ち続けること一月あまり。ある夜、見事な月夜だった。
清彦の禿げ上がった頭頂部が、月光に鈍く輝いていた。
「なるほど、このような事ではないかと、思って立ち寄ってみたが…まさに見事な頭であるな。」
不意に男の声がした。
声の方へ目を向けると、黒い外套を纏い、杖を突いた男が河辺に立っていた。
男は穏やかに、しかし底知れぬ笑みを浮かべた。
「佐久間妖道と申す。民俗の伝承を追う者だ。お主が助川清彦か。
一月ほど、この河で河童を待つという噂を耳にしたゆえ、寄ってみたまで」
どうやら、人づてに伝わるうち、捨川が助川と変わっていたらしい。それもいいと清彦は思った。
これが、妖道先生との出会いだった。
妖道は、清彦の横に腰を下ろし、月光を仰いだ。
川面は静かで、風ひとつない夜だった。
「清彦よ。河童とは、ただの妖ではない。水と人との境に立つ“しるし”のようなものだ。
お主がここに来たのも、何かを捨て、何かを得るためであろう。」
清彦は、ゆっくりとうなずいた。
胸の奥に沈んでいた重石が、少しだけ軽くなるのを感じた。
「だがな――」
妖道は続けた。
「境に立つ者は、どちらか一方に沈む必要はない。人であってもよいし、河の気配を纏っていてもよい。
お主は“どちらにもなれる者”なのだ。」
その言葉は、清彦の心に静かに染み込んだ。
自分は河童ではない。
しかし、人としての名を捨てたことも、無駄ではなかった。
「…では、私は何者として生きればよいのでしょう」
清彦の問いに、妖道は微笑んだ。
「それを決めるのは、お主自身よ。ただ一つ言えるのは――
お主の頭の光は、月にも負けぬほど美しいということだ。私はそれに導かれて来たのだからな」
清彦は思わず笑った。
涙が頬を伝い、月光にきらめいた。その夜、二人は川辺を離れ、山道をゆっくりと歩いた。
夜明け前の空は薄青く、鳥の声が遠くで響き始めていた。
「妖道先生。私は…もう少し、人として生きてみたいと思います。」
「うむ。それでよい。」
清彦は、川に捨てたはずの名を思い返した。
頼方でも、捨川でも、助川でもない。
どれも自分で、どれも自分ではない。
ただ、歩いていけばよい。
水の気配を感じながら、風の音を聞きながら。
人と異界の合間を、自由に渡り歩く者として。
やがて、朝日が山の端から顔を出した。
清彦の頭頂部が、その光を受けて柔らかく輝いた。
妖道は目を細めて言った。
「ほれ、見てみよ。河童の皿ではない。新しい日の光を受ける、立派な人の頭だ。」
清彦は空を見上げ、深く息を吸った。
胸の奥に、静かな温かさが満ちていく。
こうして――
清彦の旅は終わりではなく、始まりとなった。
水の気配を知る者として。
人の心を知る者として。
そして、境界を歩む者として。
彼は、ゆっくりと新しい一歩を踏み出した。
読んで頂き有り難う御座います。




