(五十 一)《絵の中の春》
絵は燃えた。だが、物語は、ここから始まる。
常陸の奥深い森を抜け、霧に沈む古道を辿る民俗学者・佐久間妖道は、助手の助川清彦を伴い、
怪異の伝承を追い求めていた。
ある日、妖道の耳に一つの噂が届く。長者の館に、一枚の絵画に囚われた女の霊が宿っているという。
心を惹かれた妖道は、清彦を連れてその屋敷へと向かった。
古びた屋敷は村はずれにひっそりと佇み、主も従者も既に姿を消していた。
村の古老の言葉によれば、長者は一枚の絵に祟られ、家系は途絶えたという。
翌朝、再び屋敷を訪れた妖道は、扉の前に立ち、静かに告げた。
「私は民俗学者の佐久間妖道と申す。貴殿所有の絵画を拝見したく参った。
すでに屋敷は絶えたと聞き及んだゆえ、勝手ながら扉を開けさせてもらう」
そう言い終えるや否や、錆びついた扉は、まるで待ち構えていたかのように、軋みながら自ら開いた。
玄関の正面に、それは掛けられていた。息を呑むほど美しい女性の肖像。
桜色の着物を纏い、憂いを帯びた瞳でこちらを見つめる女。
妖道は一瞬で心を奪われた。
一方、清彦は肖像を目にした途端、泡を吹いて倒れた。
慌てて清彦を背負い、村の医師のもとへ急ぐ。
息を吹き返した清彦は、震える声で呟いた。
「あの美しさに…息を忘れたんです。…危険です、先生。帰りましょう」
妖道も一旦は村を去る決意を固めたが、その夜、清彦が高熱を発した。
やむなく滞在を続けることとなった妖道の耳に、寂しげな女の歌声が響く。
気になり、再び屋敷へ足を運ぶと、月明かりの下に一人の女が立っていた。
生前の姿に戻った彼女は、柔らかくも底知れぬ悲しみを湛えた声で名乗った。
「私はサクラと申します。生前、虐げられ、非業の死を遂げました。月が中天に昇る頃にのみ、この身に戻れるのです」
妖道はサクラに恋い、サクラもまた妖道に心を寄せた。
束の間の幸福が続き、数ヶ月が過ぎる。
清彦はあの日以来、深い眠りの中に沈んだままだった。
やがてサクラの腹が膨らみ始めた――絵の中の彼女もまた、目に見えて腹が大きくなる。
妖道の胸は喜びと恐怖で引き裂かれそうだった。
その頃、清彦が目を覚ました。
妖道は全てを打ち明け、サクラを絵から解放したいと告げた。
清彦は夢の中で、サクラから幾度も謝罪され、同時に妖道と共にいたいと願われたと語った。
方法を誤れば、彼女と子を永遠に失う。
なぜなら彼女は月夜にしか実体を持たぬ幽霊だからだ。長い苦悩の末、妖道は決断を下す。
「ならば、私も絵に閉じ込めてくれ。失敗しても、家族三人、共にいられる。
そして、再び実体化した瞬間に、この指輪を外し――縁固めの儀式を執り行う」
清彦は妖道の指示に従った。
石見英次郎の硯に彼の血と髪を燃やした煤を混ぜ、サクラの隣に妖道の姿を描き入れる。
筆が紙を滑るたび、妖道の肉体は薄れ、やがて墨色の影となって絵に宿った。
絵は脈動し、魂が囚われたことを示していた。
清彦は桜の枝と棺桶の木片を集め、火を熾す。
絵を炎にくべると、不思議なことに人物の部分だけが焼き尽くされ、静かに火は消えた。
屋敷には清彦だけが残された。
妖道もサクラも、跡形もなく消えていた――
それから十年後。
助川清彦がとある町を通りかかった折、十歳の少年が声をかけてきた。
「僕、佐久間妖道の生まれ変わりなんだ」
少年の傍らには、同じ年頃の少女と少年。
少女はサクラの、少年は二人の子だと、かつての学者は穏やかに笑った。
「僕たちは生まれ変わったけど、一人の女から生まれたから、みんな兄弟なんだよ」
少年は不気味な笑みを浮かべた。
その瞳には、絵の中で燃えた炎の残光が、静かに揺らめいているようだった。
清彦は背筋に冷たいものを感じながら、町を後にした。
その夜、清彦は夢を見た。
桜色の着物を纏った女が、赤児を抱き、佐久間妖道と共に幸せそうに微笑んでいる姿を――
清彦は、夢の中で微笑む三人を見つめながら、
胸の奥に沈む温もりが何であるのか、最後まで言葉にできなかった。
それが幸福だったのか、恐怖だったのか。
あるいは、そのどちらでもなかったのか。
ただ一つだけ確かなのは――
あの絵が燃えた夜から十年経った今も、
佐久間妖道の物語は、まだどこかで続いているということだった。
清彦は静かに目を閉じた。
闇の向こうで、桜色の衣がふわりと揺れた気がした。
それが迎えに来た影なのか、
ただの幻なのかは、もう確かめようがない。
けれど、清彦は微笑んだ。
「…先生。あの世で、続きを聞かせてください」
そう呟いた声は、誰にも届かぬまま、
夜の底へと溶けていった。
(終)
読んで頂き有り難う御座います。




