(四十九 ) 天淵川指環譚
老民俗学者が出会ったのは、救いか、呪いか。
1933年、昭和八年。大和国吉野郡天川村――。
深い山の懐に抱かれたこの地は、修験道の聖域として知られていた。
苔むした巨岩が立ち並び、木々が囁き合う森の奥で、修験者たちは古来の呪文を唱え、霊的な試練に身を委ねる。
空気は常に湿り気を帯び、霧が谷間を這い、時折、遠くから山彦のような不気味な響きが聞こえてくる。
民俗学者の佐久間妖道と、その助手である助川清彦は、そんな天川村を訪れていた。
妖道は七十半ばの男で、がっちりした体躯に鋭い眼光を宿し、各地の伝承を追い求めることに生涯を捧げていた。
清彦はまもなく六十を迎える男で、妖道の熱意に感化され、共に旅を続けていた。
二人は修験者たちの記憶や言い伝えを集め、失われゆく民間信仰を記録しようとしていた。
その日、天淵川の水が不意にざわめいた。
普段は静かに流れる清流が、奇妙な渦を巻き、泡を立てる。
妖道は村の周辺を歩き、修験者の姿を探していたが、川の上流から予期せぬものが流れてきた。
幼い女の子だった。
白い着物が水に濡れ、髪が乱れ、必死に水面を叩きながら流されている。
彼女の小さな手が、助けを求めるように虚空を掻く。妖道は一瞬も迷わず、川へ飛び込んだ。
冷たい水が体を包み、足が底に届かない。女の子に手を伸ばすが、流れが強く、彼女の体はさらに遠ざかる。
妖道の肺が焼けるように痛み、水が鼻腔に侵入する。視界がぼやけ、暗闇が迫る。
やがて、意識が途切れた――
「おい。妖道よ。しっかりせい。」
懐かしい声が響く。低く、落ち着いた男の声。
「はよ。しっかりしなさい。」
今度は優しい女性の声。妖道はハッと目を開けた。
そこは霧に包まれた不思議な空間。川底のように暗く、しかし空気は乾いている。
周囲にぼんやりと浮かぶのは、良く知る顔――宮司の加藤柚流と、その双子の妹、加藤柚奈。
十年前に会ったきりの彼らだ。
柚流は白い狩衣を纏い、柚奈は緋色の袴姿。二人とも、成年へと成長していた。
「溺れた女児はいずこに…」
妖道の声は掠れていた。
柚流は溜息をつき、答えた。
「女児であれば、清彦が助けおったよ。」
「更に言うならば、お前は清彦に救われたのさ。」
柚奈が微笑みながら付け加える。
「清彦に救われるとは…なんとも。」
妖道は苦笑した。
自分が助けられる側になるとは、予想外だった。
「馬鹿を言うな。お主、自分の年齢をわかっておるのか?」
柚流の目は遠くを眺め、語り始めた。
「お主と前回会ったとき、十年後と言ったのを覚えておるか?
あの時、お主があのまま生きたらこうなるであろう未来は、我らに見えていたのじゃ。だから、この先々もよう見える。」
妖道の背筋に寒気が走った。
「何か災いでも見えましたか。」
柚奈が静かに答えた。
「何を持って、災いかと言うことだ。人に阻まれ思うように動けぬ事が災いか、
思い通りに動き命を失うことが災いというのか。それは当人の心持ち次第であろう。」
柚流が言葉を継いだ。
「以前、お主に与えた微々たる力はもう消え失せた。だが、いずれ、お前はそれに縋ることになる。
これは、私がお主に力を与えたことで出来た道筋。であるから、その道筋の先に向かうために、
必要な分だけお前の右の人差し指に、力を宿らせる。」
柚奈が兄の言葉を補うように続けた。
「よいか、妖道。このときという時が来たならば、その人差し指に施した封印を外せ。一度きりじゃ。
決して間違えるではないぞ。そして、自分の年齢に見合う行動をするように。」
二人の姿が薄れ、霧に溶けていく。
妖道は手を伸ばすが、触れるものは何もない。最後に、声だけが残った。
「お前の指に、柚の木の指環を…」
「先生! お願いですから、目を覚けてくださいよぉー。もう、女遊びはしませんからー!」
清彦の声が現実を引き戻した。
妖道の体を激しく揺さぶり、涙を浮かべて叫んでいる。妖道はゆっくり目を開け、周囲を見回した。
川辺の岩の上。体はびしょ濡れだが、息は安定している。
「本当だね、清彦君。もう、女遊びはダメだからね。約束したよ。」
妖道の言葉に、清彦は目を輝かせた。
「先生! 生きてた!」
「ところで、君は泳ぎが得意なんだね。」
清彦は照れくさそうに頷いた。
「頭がこうだからでしょうか、泳ぎは生まれつき得意で、自分では河童にも負けないと思っています。」
女の子は無事だった。村の者が介抱し、家族のもとへ戻ったという。
妖道も命を取り留めた。ただ、右の人差し指に、何かがはまっていた。
柚の木で作られた簡素な指環。木目が不自然にうねり、まるで生きているように見える。
気絶中の記憶は曖昧だが、何故か外してはいけないという強い予感が、手を止めた。
それから数日、二人は村に滞在し、修験者たちの話を集めた。
古い呪文、霊山の秘密、妖怪の伝説。だが、妖道の心は指環に囚われていた。
夜になると、指が疼く。夢の中で、柚流と柚奈の声が響く。
「このときという時が来たならば…」
ある夜、妖道は一人で天淵川の上流へ向かった。霧が濃く、月光が水面を銀色に染める。
修験者の一人が語った話が気になっていた。
「この川の源流には、古い祠がある。そこに近づく者は、己の未来を見せられるという。
ただし、見えたものが災いか福か、誰も知らない。」
足音が苔を踏む。木々がざわめき、風がないのに枝が揺れる。やがて、祠が見えた。
小さな石の社、周囲に古い灯籠が並ぶ。妖道は近づき、膝をついた。指環が熱を帯びる。
「福とは、災いとは、何だ。」
沈黙――すると、水音が聞こえた。
川から、何かが這い上がる気配。妖道は振り返った。霧の中から、影が現れる。幼い女の子。
数日前に助けた子だ。
だが、目は虚ろで、肌は青白く、水草が絡まっている。
「おじさん…助けてくれて、ありがとう。」
声は幼いが、響きは古い。女の子が近づく。妖道の体が凍りつく。
「でも、私、ずっとここにいたの。百年以上…」
指環が焼けるように熱い。妖道は思い出した。この村であった、間引きの風習を。
女の子の手が伸びる。冷たい指が、妖道の指の指輪へと――
その瞬間、女の子は晴れやかな顔をして光に包まれ消えていった。
妖道は祠の前で倒れていた。清彦が駆けつけ、助け起こす。
「先生、何をしていたんですか!」
妖道は微笑んだ。
「清彦、女遊びは本当にやめなさい。約束だよ。」
清彦は唇を噛みしめ、俯いた。
妖道はその肩に手を置き、ゆっくりと立ち上がった。
「清彦君、生きているうちは、後悔などいくらでも取り返せる。」
その声は弱っているはずなのに、不思議とよく通った。
祠の奥から、かすかな風が吹き抜ける。
霧が揺れ、木々がざわめき、まるで誰かが見送っているようだった。
「…先生、本当に、何があったんですか。」
清彦の問いに、妖道はしばらく答えなかった。
右の人差し指を見つめ、指環をそっと撫でる。
「清彦君、世の中にはな、語らずにおくほうがよいこともある。」
「でも――」
「だが、ひとつだけ言える。…君がいてくれて、助かったよ。」
清彦は驚いたように目を見開き、すぐに顔をそむけた。
その横顔は、どこか少年のようだった。
「帰ろう。寒い。」
妖道はそう言って歩き出した。
足取りはまだ覚束ないが、背筋はまっすぐだった。
清彦は慌てて後を追いながら、
ふと祠のほうを振り返った。
霧の向こうで、誰かが微笑んだ気がした。
白い着物の裾が、風もないのに揺れたように見えた。
「…先生。やっぱり、何かあったんですね。」
清彦の呟きに、妖道は振り返らず答えた。
「清彦君。女遊びは、やめるんだよ。」
「もう言わないでくださいよ!」
二人の声が、山に吸い込まれていく。
天淵川の流れは、静かに、穏やかに、
まるで何事もなかったかのように音を立てていた。
読んで頂き有り難う御座います。




