(四十六 )里坂真一の微笑
その恐怖は、誰のものか。怨霊か、あなた自身か。
薄曇りの春空の下、佐久間妖道は助手である助川清彦を連れて、竹林の奥深くに佇む古い別荘へと向かった。
民俗学者の妖道は、地方の伝承を追う中で、この別荘の存在を知った。
所有者は里坂真一という腰の曲がった農家の老人で、この竹林で竹の子掘りを生業としていた。
その建物へと向かうまでに、人の頭ほどのタケノコが至る所に生えていて、その独特の香りが竹林に立ちこめていた。
妖道がなぜ、ここに居るのかと言えば、この地がかつて禁足地であったからだ。
それが、数十年前に所有者が変わり、今では村と関係の無い者が竹林業を営んで、上手くいっているらしい。
「あの土地は昔から、落ち武者の怨念が宿ると言い伝えられてな。石碑に地蔵なんてのが、あちこちにたっている。
タケノコも豊富に摂れると知っていても、この村の者は誰一人として、あそこへは立ち入らん。
だが、このありさまよ。信じた儂等がそんをした、ということなんだろうな。」
妖道は否定した。
「そんなことはありませんぞ。何百年にわたる言い伝えには、それ相応の理由があり、
無意味なものなど、何一つとしてありませんでした。今ならば、いざしらず、明日の我が命がどうなるか、
分からぬ、大昔の先祖達が、戯れをすることなどありません。何か理由あっての石碑や地蔵でしょう。」
そして、気になった妖道は目と鼻の先のこの場所に立ち寄ったのだ。
助手の助川清彦は、はげ上がった頭を撫でながら、不安げに周囲を見回した。
三十代後半を過ぎた彼は、妖道の助手として長年付き従っていたが、常に直感に頼る性格で、
些細な影や音に過剰に反応する。そして、本人は自覚していないが、かなりの女好きである。
妖道はそんな彼を「認知の落とし穴に落ちやすい男」と評していた。
実際、清彦が欲しがった別荘購入にあたっても、彼は不可解な幻影に苛まれ、夜通し震えて、購入を断念したことがある。
あれはただの錯覚だと妖道は断言したが、清彦の心には、歪んだ認知が育んだ「何か」が根付き、
彼だけが見える怪異を育て上げてしまった結果であった。
屋敷の扉をくぐると、埃っぽい空気が鼻を突いた。
古い畳の香りと、かすかな湿気が混じり、薄暗い廊下はまるで時間の止まった迷宮のようだった。
里坂真一は、二人を迎え入れるふりをして、静かに後ろ姿を見送った。
彼の本名は風間理一。
認知のゆがみと直感の間に、人は怪異を生み出すと信じていた。
曰く付きの場所というものが存在するなら、それは人為的ではなく、
自然が認知のゆがみをもたらしているのかもしれない。
そうであれば、自分の研究の効果が倍増するのではないかと思い、この土地を購入して屋敷を建てたが、
やはり自分ではどうしてもその認知の罠に陥ることが出来ずに、
里坂真一として、ここに訪れる者の反応を観察するためだけに、竹林業という別の顔をもち、
過去の臭いを全て断ち切って、ただの村人として生きていた。
もちろん、妖道ですら、気づかない。
清彦は、屋敷に入った瞬間から、不穏な気配を感じ始めた。
最初は、ネガティビティ・バイアスの罠だった。
廊下の隅で、かすかな物音がした。風の音か、木の軋みか――だが、清彦の心は即座に負の可能性を膨張させた。
「先生、聞こえませんか? 足音ですよ。誰か…落ち武者の怨霊が、近づいてくるんです!」
彼の声は震え、額に冷や汗が浮かんだ。
視界の端で、影が揺れたように見えた。実際は、窓から差し込む春の光が竹林の葉を映しただけだったが、
清彦の脳は、過去の伝承を思い浮かべ、負の出来事を過大に評価し、恐怖を増幅させた。
次に、正常性バイアスが彼を襲った。
階段を上る途中、部屋の扉が僅かに開き、薄暗い室内から冷たい風が吹き出してきた。
清彦は一瞬、女の影を見た気がした――優美な着物の袖が、ゆらりと揺れる。
だが、彼の心は「そんなはずはない」と否定した。
正常な日常を信じたいが故に、異常を無視しようとする。ところが、そのバイアスが逆効果を生んだ。
「先生、部屋の中に…誰かいるんです。でも、きっと気のせいですよ。村人が忘れ物をしただけかも…」
しかし、心の奥底で恐怖は膨らみ、正常を装うほどに、異常が現実味を帯びてくる。
パニックの兆しが、胸を締めつけた。
そして、確証バイアスが決定的な一撃を加えた。
屋敷の奥の間で、古い掛け軸を見つけた清彦は、そこに描かれた武者の姿を、怨念の証拠だと決めつけた。
「見て下さい、先生! この目つき、血走ってるんです。伝承通りですよ。僕の直感が正しかった…ここは呪われている!」
彼は過去の経験、つまり幻影に苛まれ購入を諦めた別荘の記憶を呼び起こし、
それに合致する情報だけを選び取り、信念を強化した。
息が荒くなり、手が震え、ついには床にへたり込んだ。
「出ましょう、先生! ここにいたら、僕たちも怨霊に取り憑かれる!」
妖道は冷静に、清彦の肩に手を置いた。
「落ち着け、清彦君。君の言う怪異は、君の心が作り出した影だよ。一つずつ、解き明かそう。」
まず、ネガティビティ・バイアスを指摘した。
「あの物音は、竹林の風が屋根を叩く音だ。負の可能性ばかりを膨らませるのは、君の癖だ。
良い面を見ろ――この香り、タケノコの新鮮な匂い。命の象徴じゃないか。」
清彦は頷き、息を整えた。
次に、正常性バイアス。
「あの風は、隙間風だ。女の影? それはカーテンの揺れ。異常を正常と見做そうとするあまり、
かえって恐怖を溜め込む。現実を直視せよ。」
清彦の目が、少しずつ澄んでいく。
最後に、確証バイアス。
「掛け軸の武者は、ただの絵だ。君の信念に合う部分だけを選ぶな。全体を見ろ――
周りの花や鳥の描写。これは平和の象徴だ。伝承は理由があるが、君の解釈が歪んでいるだけだ。」
妖道の言葉が、清彦の心を解きほぐした。
パニックは収まり、清彦は深く息を吐き、立ち上がった。
「先生、ありがとうございます…また、僕の落とし穴でしたね。」
その一部始終を、風間理一は、隠し扉の隙間から覗き見ていた。
研究者の顔をのぞかせ、興奮に頰を紅潮させた。
「素晴らしい…認知のゆがみが、こんなにも鮮やかに怪異を産むとは。妖道の解釈も興味深い。人間の心は、実に脆い。」
彼は静かに笑い、二人に気づかれることなく、影に溶け込んだ。
二人が屋敷を後にし、竹林を去った後、妖道はスーツのポケットに手を入れた。
そこから、一枚の名刺が滑り落ちた。
「風間理一…? いつ入ったのだろう。」
薄曇りの空の下、妖道は首を傾げたが、それ以上は追求しなかった。
読んで頂き有り難う御座います。




